2008年4月24日木曜日

日本:イスラム説…無理か

いわゆる西洋文化圏、典型的にはヨーロッパなんかにしばらく滞在した経験のある方なら(というか、こういう時代ですから、そんな経験などしなくても)ご存知の通り、一般に西洋はオトナの世界である。ドアの把手の位置は高く、流しや洗面台の位置も高い(別に彼らの背が高いわけではない;フランス人やイタリア人の身長なんか日本人と同じくらいでしょ)。ちょっとした階段や手すりやエスカレータなんかも、子供やお年寄りにはちょっと無理かなという構造のものが多い。登山コースには「こここれは怖いぞ危ないぞ」という箇所がザラに出てくる。

ついでに言うと、乗り物でも買い物でもサッサと物事が進む。道を歩く人も比較的しっかり歩いている(日本では靴の歴史が浅いせいもあってか、足に合わない靴を履いてヨロヨロ歩く人が非常に多いため、その差が目立つ)。道路の制限速度も「そりゃこの道でそんなに速く走ったらアブナイわな」と思える、言わばホントの制限速度である。会話には常にジョークがつきまとうし、テレビのコマーシャルなんかも、ニヤリと笑わせるものが多い。「えーと、今の話って何が面白かったの?どうしてみんな笑ってるの?」という人が仮にいたとしたら、それは子供ということになっている。

この調子で例を挙げればキリがないが、早い話、何らかの理由で体が弱い人やボーッとしている人はついていけない確率の高い、オトナの世界なのだ。

(これに慣れてくると、電車の中で次の駅の名前を連呼したり忘れ物をするなと繰り返しお説教をする世界、安っぽいガキ相手の広告や看板が町に溢れる世界が不思議に思えてくるものだけれど、別にそんな日本が「悪い」と言わなくても良いでしょう。まぁ、これから成長するのだ。)

んで、子供やお年寄りや種々の障害のある人はどうするのかというと、それ用の設備や場所を「そういう人はこちら」とばかりに用意してある。それが弱者に対する思いやりとか福祉とかいうものである。

一方、我らが日本はそこまでいってないというか何というか、「みんないっしょ」にすることが弱者に対する思いやりだという発想が随所に張り巡らされている。子供にも手の届く洗面台、お年寄りにも使える階段、障害者と共に学ぶ教室、等々を用意して、皆さんがこれを使うのが平和という発想である。したがって、多くの人は弱者に「合わせてあげている」格好になる。パッと見たところ全体のレベルが低いように見える。

(確かにこれでいくと「全体が足を引っ張られる」というマイナス面がある。その一方、多数者が「別に自分はそこまで低いわけじゃないんだけどね、合わせてあげてるの。あぁなんて優しい私」という気分を持って安心できる側面もある。別に悪いことでもないでしょう。また、心身に重度の障害を持つ人たちはまるで完全に隔離しておきながら「私達はみんないっしょに暮らしている」という幻想に浸ることもできる。これはちょっと悪いかな。何しろここらのバランスが微妙に揺れ動いてこの国の特徴の一大側面を形成している。)

さて、えー、以上は前置きだったのでございます。それでですね、数年前に「女性専用車両」なるものが出現した時には「こ、これはえらいことを始めちゃったのね」と思ったわけですよ。もちろん決めつけはできないけれど、この国には、上記の通り、およそこの種の隔離を明るく実行する土壌が稀薄である。「みんないっしょ」じゃないと角が立つわけです。

これが「中国人専用車両」とか「在日韓国人・朝鮮人専用車両」となると、皆さんは「ダメ!いけまちぇん!」と言うに決まっている。それは例えば米国で「黒人専用車両」とか「ユダヤ人専用車両」が不可能なのと同じことである。

ここで、「いや、そういうのは人種差別であって、痴漢犯罪防止とは関係ないでしょ」とは言えないんですなぁ。米国で黒人問題の討論をすれば必ず「でも、実際問題として犯罪者に黒人が多いのは事実なんだから市民を保護するために何らかの隔離もやむなし」という意見が聞かれる。

要するに、この種の区別は差別と区別がつかないのだ。この種の差別は区別と差別がつかないのだ。こんな言葉遊びができるほど、その境界は曖昧なのである。

この「女性専用車両」なるものがいかに不可思議なモノであるかは、その背後にある論理を探ろうとすればすぐわかる。なぜなら、いわゆる普通の意味での論理は存在しないからである。すなわち痴漢犯罪をなくすことと女性専用車両を用意することとの間には何の必然性もない。女性専用車両においても痴漢はあり得るし、女性専用車両の外なら痴漢犯罪があって良いわけでもない。

論理的に成り立つとすれば「痴漢専用車両」を作ることであろう。これなら、痴漢の皆様はこの車両に乗れば良いのであり、その被害に遭いたくない人はこの車両を避ければ良いのである。ところが、それはやらないでしょ。理由は簡単、痴漢の皆さんが正直にその車両に乗り込むことも考えにくいし、その被害に遭いたい人がそこに乗り込むことも考えにくい。というわけでしょ。これに対して「当たり前だろ」と真顔で言い切れる人には、「んじゃ、女性専用車両って何なんです?」とまっすぐ問い掛けてあげたい。当たり前の答は返ってこないであろう。

ということは、この「女性専用車両」というヤツ、文字通り素直に受け止め、普通に考えてもわからないのですな。

結論から申しますと、これは「男子禁制車両」なのであります。なぁんだ、と仰るなかれ。ここがこの国の微妙なバランスなんですけん。

男子禁制。何とも古式ゆかしい感じでしょ。実のところその通り。現代これを実行しているので有名どころはイスラム諸国でしょうかな。家には男性禁制の奥の間があり、女性はできるだけ顔や皮膚を隠す服を着て…という、あれである。別に古いからダメというわけではないけれど、まぁ今の世の中においては古い発想とされている。良い悪いではなく、オトナになるとは、そういうことなんですな。

実は日本の皆様もそういう古い発想に気分のどこかで納得できるものを感じているのであろう。事実、古い風習を伝える相撲とかお寺なんかの世界には女人禁制の場所がある。同様に男性禁制の場所も「何となくわかる」土壌があるわけだ。しかし、それが醒めた現代生活の文脈に合わないこともよくわかっている。

一方では、言葉にならぬ古い風習に対する一種の憧憬(…があるとはハッキリ認めたくない)。一方では、技術大国ニッポンの、そしてしばしば「無宗教です」と胸を張る日本人の、醒めた現代感覚(…のために理屈をつけようとして非論理に陥る)。この2つに挟まれた空間に、「女性専用車両=男子禁制車両」はポカリと浮かんでいるらしい。

そう考えると、この女性専用車両なるものが持つ何とも奇妙な感じにちょっと説明がつくように思える。実は隔離でも差別でもなく、単なる男子禁制への逆戻りに過ぎず、「みんないっしょ」原則にぶつかるわけではない。でもそれを醒めた意識のレベルで認めたくない気がしている。この辺りに、この国の持つ「何とも奇妙な感じ」が発生する微妙なバランスがあるようである。まぁ、試しに西洋人に女性専用車両を詳しく説明して御覧なさい。少なくともどこかで以上の理路を通過することでしょう。

2008年4月18日金曜日

借金取りには超越モードで対応

およそ借金をしたことがない。そりゃもちろん「あ、ちょっと200円貸して」とか「今夜はごちそうさま。今度おごるよ」的なことをやらないわけではないけれど、実はそれも抵抗あるぐらいである。要するに、「あぁこの金は返さにゃならぬ」という気分でまとまった金を借りる習慣がないのだ。っつーか、怖くてできない。クレジットカードを使う場合も常に「一括払い」である。存在する金しか使わない。(…と自分では思っている。のがアブナイのかも知れんなぁ。)

これは、通貨が記号化して独り歩きする資本主義社会においては損な性分である。金利が安い時にドーンと借金して家でも買って、その家を担保に更なる借金をするとともに、家の値打ちが上がったところを見計らって売り、同時に次なる借金をして…というのが、現代の日本や米国みたいな「お金の国」においては要領の良い、賢い身のこなしなのかも知れない。

もっとも、それをやり過ぎた米国を見よ。特にこの10年ばかり「存在しないお金」がグルグルと社会を駆け巡って経済を支えていたことが明らかになってきた。んで、「ところで、そのお金はどこ?」という話になった途端、経済の根幹からグズグズと崩れ始めている。それを思えば、借金怖くてできませんという性分も、ある意味健康で良いではないですか。

ではどうして借金取りの影におびえねばならぬのか。実はですね。久々に大学という職場に戻って業務しているわけです。すると久々にSくんにも会う。まぁ同僚というか元バンド仲間で飲み仲間のニュージーランド人である。いろいろと与太話をするうちに「またビール飲みに行こうぜ」といつものノリになった。

途端に思い出した。そうだ。この前こいつと飲みに行った時には徹夜になったんだ。んで、最後に行った店の支払いをせずに帰ったのだ。あぁ思い出したよ。げげげ。

顔色を隠しつつ、「あはは、たしか、こないだの借りがあるから、今度は最初の何杯か払うし」と付け加える。あぁ。借金を返す義務とはこういう気分か。あっちは「あーそうだった」と喜んでいる。くそ。貸した方は余裕の気分か。まぁこの人の場合、実は引ったくりの被害に遭ったばかりなので、いずれにせよ同情杯を何杯かおごられるべきかも知れぬ。

Lくんとも顔を合わせる。「どーもどーも、こないだはどーも」と無意味な挨拶を言い始めて気がつく。あ。借金。

春休みの間に翻訳を何本かやったが、そのうち3本でこの英国人のLくんに手伝ってもらったのだ。それでお代を頂くからには、その一部をLくんに回さねばならぬ。っつーか、そういう契約で雇った形なのだ。「あぁ、あれね、こっちもまだお代をもらってないから、申し訳ないけど、ちょっと待ってね」…あぁ借金とはこういう気分か。あうぅ。

ついでに記憶が甦る。そう言えばあの医療器具紹介ビデオには苦労したなぁ。英語のビデオをもとにまずは英語の原稿を作るのだが(依頼人は翻訳が必要な人のはずなのに、何でそんなものが要るのだ)、それがなかなか難しい。そのために雇ったはずのLくんにもわからない。仕方ないので内容をジワジワと理解していきながら仕上げていくのである。

あぁ、そう言えば最後の最後でやっとわかった語句があったな。ある医者がスルスルと喋っているのだが、その問題の部分で何を言っているのかわからない。そもそもこの人、時々つっかかりながら懸命に喋っている。しかも問題の語句の音は「ひゃらほれはれ」とハッキリしない音が並ぶ。さらに、その箇所には、ビデオに起因する雑音が「ザザッ」と入っているのだ。こりゃ誰にもわからんわいと思われた。

普通、こういう時は「わかりましぇ〜ん」で良いのである。その話の内容が非常によくわかっている人ならスッと聞いてわかるかも知れない。しかし、いわゆる一般の人にはわからないであろう。っつーか、あの雑音じゃ何もわからんって。英語話者が英語のビデオを見てもわからないものを、日本語話者が日本語版を見た時にはわかるなんてのは、翻訳者のやり過ぎとも言える。まぁ、できないものはできない、本物のプロならこれでよろしいのである。

そうと決まれば話は早い。あとは遊びだ。本物のプロにこだわることもない。というわけで、まずは、その医者が着ている白衣に記された病院名とその医者の名前らしきものからその医者の所属とフルネームを突き止める。インターネット検索とは恐ろしいねぇ。電子メールのアドレスもわかったので本人に聞こうかとも思ったが、何しろ時間がない。っつーか、もうこっちは遊びモードなんだし。まぁとりあえずその医者の専門分野らしきものを確認しておく(すると言葉遣いがある程度絞り込める)。

それからまたビデオを見る。今度はその医者の口をにらみながらコマ送りである。口が開いて、舌が上方に向かって動いて、唇がやや突き出されて…という動きを何度も何度も見る。同様の言語学的訓練を受けた人ならおわかりであろうが、これでかなり「出ているはずの音」が絞り込める。

それからその前後の語句を検索しまくって、それっぽい音の語句を探すのである。長い時間をかけた揚げ句、問題の箇所が hyaluronic acid という二語であることが判明した時にはずいぶん疲れてましたよ、ホンマ。まぁ、こんなアホなことしなくても良いんだけどね。

あれあれ何の話だっけ。あぁそうだ。それでもLくんに払うものは払わないといけないのだ。あぁ借金とその哀しさ。

ここまで考えると、重く暗い考えが頭をかすめる。今回は、たまたまこうして借金相手の顔を見たから思い出したのではないか。この調子で知らないうちにどこかで借金をしているのではないか。そして忘れているのではないか。どどど。どきどき。

こうなると、これを読んでいる人は、この弱みにつけ込んで「おーい、あのお金のこと、忘れてないよね」という言葉を投げ掛けてやろうと思うことであろう。わははは。その手には乗らんぞ。もう超越モードに入っちゃうもんね。お互い、この地上に生きとし生けるものではないですか。一瞬の生を共有しているに過ぎないのですよ。

わははは。この生命、この世界、いわばすべて借り物。そうしてまた我々はどこかへ帰っていくのですよ。わはははは。生きているとは不思議なことですな。わはははは。では失礼。

自己紹介

自分の写真
日本生まれ、日本育ち…だが、オーストラリアのクイーンズランド大学で修行してMA(言語学・英文法専攻;ハドルストンに師事)。 日本に戻ってから、英会話産業の社員になったり、翻訳・通訳をやったり、大学の英語講師をしたりしつつ、「世の中から降りた楽しい人生」を実践中、のはずです。