2008年11月11日火曜日

脳もほどける八十一夜(←意味不明)

やっと気温が下がって「秋!」という感じの風が吹く…かと思ったら急に暑くなるし、蚊が出るし、梅雨みたいに雨が降る。先日乗ったモノレールでは冷房がかかっていた。もう11月だぞ。

こうなったら、我々が普通に培ってきた季節感をいくら懐かしがっても仕方ない。この調子だと、この日本は「暑い季節」と「ちょっと寒い季節」の二項対立しかない南国の島になりそうである。

日本の各種ビジネスにおかれては「これからは南国」ということで手を打っておられるに相違ない。英語教育も「南国の英語対応」ということで手を打つ必要があろう。南国になってからでは遅い。今のうちに、「このパパイヤはあのバナナよりも安いですよ」「新しい腰蓑の具合はいかがですか」というような例文を盛り込んだ教科書を準備しておく必要がある。

そんなわけでこちらも時代を先取りして、アフリカの音楽家の作品集とかギリシャのポップとか Souad Massi というアルジェリア生まれの歌手とかを仕入れて聴いている。ううむ南国。

(しかしどう考えても飲み物は北の方がウマイような気がするんだが…一般にスコッチも日本酒も寒い所で…まぁ良いか。南国でも北の飲み物を楽しめば良いではないか。そうだそうだ。)

…というアホなことを近鉄電車の中で書いているのだから南国を待つ身も平和なものである。もっとも、こんな駄文を書いている大きな理由は「インターネットにつながらないから」である。すなわち目下仕上げねばならない翻訳は、様々な薬の名前や実験装置の名前が飛び交うすさまじいものなので、調べないとわからないのでありますな。

つい先日までは下原稿を作るためにヒマさえあればカチャカチャと作業していた(したがってこのような駄文を書くヒマもなかった)。ところがとうとう「後で調べようっと」と思って残した箇所を片づける段になった。こうなると電車の中で作業というわけにはいかなくなる。やぁれやれ。できんがな。というわけでこうして日本語の文章を綴ることになる。

「当てにならないインターネットで調べるなんて、なんと不真面目な仕事態度」と思われるかもしれない。でもねぇ、調べる対象によっては、これしかないんですわ。とゆーか、インターネットがなかった頃は、こんなことできませんでしたよ。

例えば「○○薬を入れた試験管をABC装置のバルブに装着して」とかいう話になると、こちらには何だかわからないので、とりあえずインターネットで確認することになる。何しろ(最新の実験機器)ABC装置なんて辞書に載ってないし、当該メーカーに問い合わせるなんてのは最終手段だろうし、まぁ手頃な手段なのだ。

「そんなのわからなくても英語に直せば良いじゃない」と思う方もあるかもしれないが、もちろん言葉が相手だとそうはいかない。上の例であれば、「試験管」が複数形なのかどうか、「バルブ」が単数形なのかどうか、この辺りがわからないと言葉になってくれないのである。そこでABC装置の現物写真を眺め、その装置を大体どんなふうに使うのかをザッと調べることになる。できればこの器具について「(試験管を)装着する」はどういう表現を使うのか、メーカーのサイトなどで確認する。それでもわからなかったりする。疲れる話でしょ。翻訳とは、そういう作業なのである。

そんな作業をしていると頭の中の言語処理部分が本当に「どーかなっちゃった」ような気分になることもある。英語における単複の別や、日本語における長幼の区別(「兄」「弟」の類)をはじめとして、一方の言語では平然とフツーにやることが他方の言語では存在しない事例はよくある。んで、特にない方からある方へ置き換えようとすると、内容を与えてもらえない形式だけが頭の中で見事に空転する。翻訳作業中は、これをまとまった時間にわたって繰り返すことになる。

すると個別言語の文法に振り回されて知覚・思考を行っている「自分」というものがバラランとほどけてしまいそうな一瞬がやってくる。「ここにいる自分という現象は言葉の上に映写された像に過ぎない…今その言葉がバラランと解けた…そこに映写されていた自分なる現象はフニャリと周囲の暗黒空間に溶け込み…」という、台本にしたら前衛演劇も真っ青の現実が迫ってくる。危険。キケン。

おぉ駅につく。こういう人間が電車を降りて歩き始めるのである。ご注意。

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自己紹介

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日本生まれ、日本育ち…だが、オーストラリアのクイーンズランド大学で修行してMA(言語学・英文法専攻;ハドルストンに師事)。 日本に戻ってから、英会話産業の社員になったり、翻訳・通訳をやったり、大学の英語講師をしたりしつつ、「世の中から降りた楽しい人生」を実践中、のはずです。