2008年6月11日水曜日

進化の不思議か…? 確かめる必要がある

やれやれ今日の大学業務が終わった。あとはオレの時間だ。…と自分モードに戻りながら道を急ぐ。その道は軽い下り坂になっている。こりゃ楽で良い。ホイホイと歩く。

すると前方を歩いていた人がポテンと転ぶ。足首にも膝にも力が入っている様子がない。両足がフニャフニャと崩れ落ち、全身が前に倒れ、両手を地面にペタンとつけていく。両足は蛙の如きガニ股に広がる。全身がべたりと地面に向かう。屈託のない、そして情けない、完全に幼児の転び方である。

へええぇ。職場のお客さん(学生)であろうから、もう二十歳前後のはずだが、それがあんな転び方をするわけかぁ。そんなおかしな感心をしながら道を急ぐ。

やがて電車を乗り継ぎ、駅につく。やれやれ。早く帰ろう。そう思って階段を降り始める。前方ではややヒールの高い靴を履いた女性がヨタヨタと階段を降りている…と、その人は「アッ」という声を上げて倒れた。

階段を下りている最中に倒れたのだから結構大変である。ケガもあり得る。やや緊張して観察しながら少しずつ近づいた…んだけど、様子がオカシイ。

すなわち、「転倒した」と思われたその人は、その一瞬後にはグズグズと全身が崩れ落ち、足にも腰にもまったく力が入らぬままへたり込んだ姿勢でズズズズと階段を下に移動していたのだ。両手も何となく力なく身体の両脇に添えている。まったく何の抵抗もない感じである。ただ、黙って、ズズズズと下に移動していく。それは、ある意味スゴイ受け身である。

ここに至って考えた。ううむ。こりゃ、何かが起こっているぞ。

数週間前に聞いたチョムスキーのインタビューを突然思い出す。人間の進歩に関連して、「中世の教会建築なんか見て御覧なさい。もう我々にはあんなのを建てることができない」と言っていた。要するに、人間はそれぞれの時代でそれぞれのことをやっているのだ。進歩したからといって、それまでやっていたことは全部やった上で新たに何かを積み重ねるのではない。生きている時間は限られているのだから。それぞれの時代において、それぞれの人が、それぞれのことをやるしかないのだ。

あのフニャフニャとした転び方についても、「もうかつてのようにしっかり上手に転ぶ人が少なくなった。子供の頃から体を使って精いっぱい遊ぶ習慣がなくなったからねぇ」と老人のように嘆くよりは、「おぉ、流れに逆らわぬ見事な受け身を習得する人が増えている。身体能力の進歩だ。進化だ」と喜ぶべきなのかもしれない。しかし、わからない。ううむ。

少なくとも、このあたりを解明するためには、あのフニャフニャ受け身をある程度自分でも実践できるようになってみる必要があるだろう。かつて拳法の練習に精を出し、後に少しだけ柔道の練習をしたことがある我が身にとって、これはちょっと難しい。が、だからこそ、それぐらいの技を身に付けるぐらいの手間を惜しんではいかん。所詮、その手の「正しい」とされる受け身なんて、アスファルトの地面や駅の階段やハイヒールを前提としたものではない。時代も場所も変わったのだ。それなりに考えて手を打たねばならぬ。

あれほど足元に力が入らないままにフラフラと情けなく崩れ落ちるためには、よほどのアルコールが入っている必要があるな。足に来るやつなぁ…ウォッカとか、焼酎とか、あの辺だな。うむ。人類の進化に付き合うためだ。やむを得ない。実験と。いきますか。うむうむ。

2008年6月4日水曜日

陽性米国が音になったらボストン…か?

どういうわけか(←わかっててゆーな)米国の音楽・バンドは聴かないのであるが、もちろん例外もある。サミュエル・バーバーの「弦楽のためのアダージョ」を否定するのは困難だし、ジョン・ウィリアムズの映画音楽の数々も楽しめる。サイモンとガーファンクルは黄金の定番だし、ドアーズは(もちろんジム・モリソンがいた頃の話であるが)何かとんでもないものが結晶した現象であった。…でもこうやって数えるぐらいしかない。

そんな数少ない例外のひとつがボストン(Boston)である。個人的な好みはさておき、この音は取りあえず聞いておく必要がある、そういうバンドである。デビューしていきなり猛烈に売れ、じっと何年も沈黙してから2枚目を出して強烈に売れ、それからじっと何年も…というパターンで着々と音楽を作り続ける職人芸バンドである。

しかし、バンドにありがちなパターンからは逃れられないのであろうか、彼らの頂点とも言える3枚目を出した後、看板ボーカルがいなくなった。辛うじて4枚目を出したけれども、もうかつての光がないと言われ(結構良い曲もあると思うんだけどな)、次に出たのはベスト・アルバム。要するによくあるパターンですな。

ついでに言うと、このバンドの中心人物のトム・シュルツの性向・趣味により、「子牛は(かわいそうなので)食べないようにしよう」「地球・環境を守ろう」「ちなみに僕たちは菜食主義者です」という類のメッセージをドンドン宣伝するようになった。

そりゃまぁ当初から「シンセサイザー使ってません!」というのを自慢していた連中であるから(とは言え今では使ってるけどにゃ)、もともとその気はあったんだけど、それにしてもねぇ。どうしてロックで売れるとこうなっていくのかなぁ。ボブ・ゲルドフもボノもみぃんなグリーンピースの回し者みたいになっていくじゃないの。だからダメとは言わないが、何だか鼻につくのも事実なのね。派手に売れた頃の放蕩生活の反動だろうと勝手に想像している。

あれれ何の話だっけ。あぁボストンの新アルバム。これがとっくに出ていた(2002年)と知った時には驚いた。げげ。いつの間に。あと何年かは大丈夫だと思っていたのに。

見ると「アメリカ会社(Corporate America)」という興味深い(というか、それだけで何を言いたいのかある程度わかる)タイトルである。おおおぉ。アマゾン米国の消費者評などを見ると結構評判が悪いが、そんなのをあてにしてはいけない。こういうのは自分で聴くしかない。というわけで早速インターネットの魔法で入手する。

聴いてみると確かに曲の作り方が変にダサくなっていて「完成度が低い」という評は否定できないけど、良いじゃないの。これは間違いなくボストンの音ですよ。

ボストンの音楽は「愚劣なまでに単刀直入な曲作り」を究極まで磨き上げて成り立っている。歌詞も素直にして単純明快である。特に深みも何にもないが、それで良いのである。「パーティーだ、楽しい!」とか「好き!」とか「ウジウジと過去を振り返るな!」とか「さぁ進め!」とかいった素朴で肯定的なメッセージを、やはり素朴で肯定的な音に乗せる。その技量が完璧なのだ。聴く方は素直にニッコリし、あるいはホロリとし、あるいは力づけられる。それで良いのである。

ボストンが道を誤り始めているとすれば、「ちょっとうまく作ってみようかな」という作為的意図が顔を出し始めたことであろう。ちょっと「効果的」にアコースティック・ギターを使ってみようかな。ちょっと「政治的なメッセージ」を含む歌詞も書いてみようかな。ちょっと「気の利いた」遊びも入れてみようかな。…これをやり始めたのだ。もちろん、こういうのはすでに大御所がいくらでもいる。もっと言うと、こういうのは努力の問題ではなくてセンスの問題である。だからマネしても仕方ないのだが、素朴な曲を完璧に作ったあとは、どうしてもそんなことがしてみたくなるのであろう。

という経緯で、「アメリカ会社」という、確かにボストンの音なんだけどボストンらしからぬ音楽に聞こえる作品ができたものと思われる。なるほどなぁ。こりゃ失望するファンもいるだろう。

でもねぇ、何だか許せるんですよ。だって、「ちょっとうまく作ってみようかな」という作為的意図が、見事ボストン的に、すなわち単純・素朴・素直・肯定的に、聞こえているんだもん。確かに音としては完成度が落ちたかも知れない。でも、そういう問題ではない。この「アメリカ会社」は、単純・素朴・素直・肯定的に音を造り上げるというボストンの姿勢そのものである。完璧に仕上げられた作為的意図…悪くないよ。

実はもう4度ほど聴いている。もうそろそろ飽きるだろう。今までと同じである。屈託のない高品質の娯楽。ボストンはこれで良いのである。

おわかりですか。何しろボストンなんですよ。アメリカの良いところが素直に詰まった場所ですわな。MITがあり(トム・シュルツはそこの学生だった)、ハーヴァード大学があり、もうちょっと範囲を広げるとペンシルヴァニア大学もあり等々、キレイな白人的アメリカが凝縮された一帯である。英語も比較的キレイである。(最近は日本でも英語をよくご存知ないのに「アメリカ英語は嫌い」などという人が増えたが、そういう人にボストン近辺の教養人の英語を聞かせたら「これはイギリス英語でしょう」などと間違うんじゃないか。ここら辺りが「ニューイングランド」と呼ばれているのにも(歴史的経緯を越えた)理由があるのだ。)

そういう場所で良い教育を受けた白人なら、何もひねくれる必要がない。アメリカのおいしいところを享受する立場にあればこそ、お互いもののわかった人間だという信頼の上に立って、素朴な歌を完璧に作ればそれで良かった。「環境破壊について、米国政府とタバコ会社の癒着について、バカどもにもわかるように教えてあげよう」などと思う必要はなかった。にもかかわらずそういう方向に手を出し始めた。…けどやはり素朴なものしか出てこない。

ある意味これは米国のどうしようもない陽性部分の具現化である。我々は米国の陰性部分をイヤになるぐらい見せつけられている。たまには「良いところ」「逆らえないほど素直なところ」を味わうのも良いじゃないの。深みも何もないからすぐ飽きるけど、忘れちゃいけない大事なことを思い出させてくれるボストン。だから時々聴きたくなるボストン。何年かに一度、聴きたくなる頃に新ネタを出してくれるボストン。これで良いじゃないの。事実、聴いているうちに気分が陽性になった。屈託のない良質の娯楽。これがボストンですわな。

終わっても終わらなくても終わる…のか?

目下多忙と寝不足でヘロヘロでも、田川建三さんの新約聖書概論という講座には欠かさず出かける。通い始めて何年にもなるなぁ。ひょっとしたら十年ぐらいか。げげげ。時の経つのは早いものだ。

いわゆる共観福音書の話から始まったその講座も、その最終段階、すなわち「ヨハネ黙示録」の話に突入した。これは新約聖書と呼ばれる文書集の中で最後に位置する文書であり、したがってホントに最後の最後なのだ。ううむ、ついに終わるのかぁ。ある種、感無量である。

この講座を聞く前は、聖書やキリスト教について何にも知らなかった。んで、今はどうなったかというと、やっぱり何にも知らないようである。それでも「こんなに何にもわからないのかぁ。そりゃまぁ、そうだわなぁ」ということが少しわかり始めたような気はする。ような気がする。とすれば、それはそれでそれなりに大したもんだとも言えるかも知れない。と思うことにする。(なお、それほど多くを教えてくれた人をつかまえて安っぽい同僚みたいにセンセイ呼ばわりする気にはなれないのが我が商売の呪われたところであり、だから田川さんは尊敬をこめて田川さんなのである。)

およそ新約聖書に収録されている文書はわけのわからないものが多い(2000年も前に書かれたものを読んでおいそれと話が通じる方がどうかしている)。その中でもヨハネ黙示録は極め付きに奇怪な物語である(だから愚劣極まる解釈・解説の類も多い)。ある時、こういうのは静かに座って読んでもダメだと思い、部屋の中を歩き回りながら始めから最後まで一気に大声で読んだことがある。それは確か New King James 版という最善とは言えない英訳であったが、それでもなんだか限りなく渦を巻くドロドロが感じられた。「ヨハネ黙示録はドロドロ渦巻き」というのが唯一手応えのある理解であった。

『キリスト教思想への招待』を読んだのはそれから十年以上も経ってからである。この本には問題のドロドロ事情の一部が書いてある。というか、この本の最終章は丸々ヨハネ黙示録の話なのだ。その章では、この文書がいかに「そう簡単に終わらせるわけにはいかない終わりの物語」であるかが解説されている(そもそも日本語で書かれたヨハネ黙示録のマトモな解説は珍しい)。それからさらに数年経った今、これを書いた本人からこのドロドロ話がさらに詳しく聞けるのだから、面白くないわけがない。

そう簡単に終わらせるわけにはいかない物語についての話であるから、そう簡単には終わらないであろう。すなわち「新約聖書概論」講座自体、そう簡単には終わらないことになる。実際、そう簡単に終わりそうにない。新約聖書という文書の話が、そしてキリスト教という極めて奇妙にして巨大な現象の話が、そう簡単に終わるわけにはいかないのだから。

それにしても月日の経つのは早い。この種の話に首を突っ込んで何年になるのであろうか。もっとも、対象が何であれ、首を突っ込んでじっくり時間をかけて身体化するというのが我が流儀であるから、少々時間がかかるのは仕方ない。それでも生命時間には限界があるから、どんなに終わっていなくても終わりとせざるを得ない時が来る。

試験なんかでも、終了時刻になれば、終わってても終わってなくても「終わり」である。職場でも、目の前の仕事が終わってても終わってなくても終業時刻が来れば「終わり」、これが世界の常識である。要するに、生きているとは、そういうことなのだ。ダラダラ残業など、自然の摂理に反する行為である。でしょでしょでしょ。

しかしまた、そう簡単に終わらせるわけにはいかない。生きているとは、そういうことなのだ。終わる時にはアッサリ終わるに決まっているのだが、そう簡単に終わらせるわけにはいかない。これを腹の底からの実感として理解した時に限りないドロドロが生まれるのかも知れない。

そのドロドロに終わりはあるのか。これを考えないとこの話は終わらないのだが、まぁ、またの機会にしますか。今回はこれで終わり。