2009年2月23日月曜日

中国武術映画に酒道を見た…のか

日頃は映画なんて滅多に見ない。時間がかかって面倒なのである。でも予告編ならチョイチョイ見ることがある。数年前、ジェット・リーの出演する映画の予告編を見て、「この人の動きはずいぶん良いな」と思って驚いた。それからしばらく経ち、また別の映画の予告編を見て、「この人の動きはずいぶん良いな」と思って驚いた。

こんな具合に期間をおいては同じように驚いていたのでは疲れますがな。何しろこのジェット・リーというやつは非凡に巧いに相違ない。あきらめてちゃんと見てみよう。そう思ってこの人が出演する映画を何本かパラパラと見てみたら、確かにうまい。こりゃタダモノではないなと思って調べてみたら若い頃から(というか小さい頃から)中国で何度も優勝している武術家であった。なんと17歳かそこらで現役引退している(ケガのためだそうである)。

どの映画も、筋書きはどーでも良いほど単純である(端的にくだらないことも多い)。要するにジェット・リーがクルクルと華麗にして強靭な技量を披露してくれれば良いのだから、まぁそれでよろしいのであろう(その意味では、少林寺(Shaolin Temple)シリーズなど初期のころの作品の方が、素直で楽しい作りになっていてお勧め)。その単純な筋書きの背後には常に「武術なるもの、相手を破壊するためのものではない」という主題が底流している。

習い覚えた武術を振り回して活躍すれば相手が倒れる。ところがホントはそれをやっちゃいけない。なんとも単純なジレンマというか矛盾であるが、あらゆる武術モノはこの主題から逃げるわけにいかない。というより、およそ武術・武道等と名のつくものはこの主題を提示するものである。

およそ他人に危害を加えるのはよろしくない。っつーか、もし本当に危害を加えたいのなら、エッチラオッチラ修業など積んでおらず、刃物とか飛び道具を使うのが早い。現に、今の世の中で実際に行われている戦争を見るが良い。相手に勝つための修業を積んでおられる様子など極めて稀薄である。ひたすら残虐な兵器を身体的実感とは無縁の世界で開発し、それをできるだけ身体的実感と離れた形で使用している。兵器をボタン一つで発射し、殺される人の実際の姿をできるだけ想像せずに済ませているという図である。これって何だかヤバイよオカシイよ…と思うのがまともな感覚であろう。

武術映画の類は、どうやらここら辺を確認させてくれるものであるらしい。ちゃんと自分でしっかり現場を見ながら自分の力で他人に危害を加える。んで、「これはいけないことなんです」とくる。

見ている方はとりあえず「ははぁなるほど」と思うが、次に「それはわかったけど…あんた、やってるじゃん。どうしてわざわざそんな修業するのさ。やっちゃダメなんでしょ」という疑問に移行する。それに対しては、「そうで〜す。やっちゃダメなんです。確かに役に立つけど、あえて役に立てない技術です。でもさぁ、見てて楽しいでしょ、見事なもんでしょ」という趣旨の答が用意される。

考えてみれば、人間というもの、生きている間にいろいろな技量を身に付け、磨いて磨いて、そうして死んでいく。「何のため?」と言われちゃったらオシマイ。その技量の分野が武術であろうが、音楽であろうが、学問であろうが、同じことである。こういうレベルでは、「まぁ、ささやかながら人様のお役に立てば…」みたいな話が出てきてチャンチャン♪と話が終わるのが通例である。

したがって、武術系映画も「見てて楽しい、見事なもんだ」で楽しめばよろしいのである。しかしまた、そこには大道芸を観て「こりゃ楽しい、見事なもんだ」と思うのとは異質の説得力がある。やはり身体性というこの上なく具体的な土台の上に修行者共通の倫理観が生まれるからであろうか。

例によって、以上の考察は前置きである。ここから導かれる結論はただ一つ。本当は飲まない方が良いのかもしれないが、酒を飲めば楽しい。時に飲み過ぎて「これはいけないことなんだ」と悟る。人間、生きている間に飲んで飲んで死んでいく。「何のため」と問うてはオシマイである。酔いというこの上なく具体的な身体性の上に一種の倫理観が現れるのが杜氏の仕事というものであろうか。飲む方は、「こりゃ楽しい、見事なもんだ」となるのが最善であるか。うむうむ。では失礼して。

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自己紹介

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日本生まれ、日本育ち…だが、オーストラリアのクイーンズランド大学で修行してMA(言語学・英文法専攻;ハドルストンに師事)。 日本に戻ってから、英会話産業の社員になったり、翻訳・通訳をやったり、大学の英語講師をしたりしつつ、「世の中から降りた楽しい人生」を実践中、のはずです。