2009年3月2日月曜日

鬼は外、エイリアンは内

たまの休日はありがたいものである。ぜひ有効に利用して世のため人のためになる活動に勤しまねばならぬ。というわけで、「エイリアンの一気見」を敢行する。すなわち、'Alien', 'Aliens', 'Alien 3', 'Alien Resurrection' という「エイリアン・ボックス・セット」を一気に見てしまうという、この上なくバカバカしい、そして眼球の疲労する乱行に挑戦したわけである。

ウワサによると、1作目は古典的傑作、2作目は駄作、3作目はダメダメ、4作目はもうムチャクチャというのであったが、果たせるかな、ほぼその通りであった。まぁ見ているうちにだんだんとエイリアンの姿に慣れてきて、それに反比例するかのように筋書きがどうでもよくなってきて、しまいにはもう何が何だかわかんなくなってくるんだけどね。

それにしても一番最初の作品、非常に良くできている。大道具・小道具の細部に至るまで気を使ってあることがよくわかる。いや、何といってもジェリー・ゴールドスミスの音楽がすごい。無調のスコアがこれほど狂おしく深く美しいというのは大したことである。メイン・タイトルなど、短いながらも、公平に見て(聴いて?)ベルクの「ヴァイオリン協奏曲」やシェーンベルクの「浄夜」などと同列に並べても良い作品ではないかとさえ思われる。ウソだと思ったらちょっと聴いてごらんなさい。「ははぁ、まぁ、なるほどねぇ」ぐらいには思っていただけるはずである。

この映画については実に多くが語られている。フロイト式解釈とやらも根強い。エイリアンなる怪物は男根の象徴であって云々という、ある意味わかりやすいけどやっぱりピンと来ない(けど「ピンと来ないのはあなたの抑圧によるのだ」とくるかな)という、いつものパターンである。

まぁねえ。もちろんフロイト式がダメとは言わない。実際フロイトさんの当時はヒステリー患者を始めとしてたくさんの人を治したんでしょう。フロイトの物の見方も我々に多くを気付かせてくれる。その限りにおいて全然文句は言わない。でもねぇ、今やヴィクトリア朝的におしとやかで抑圧的な時代でもないし、何でもかんでも性的抑圧がどうのこうのって疲れますよ。

(特に現代日本においては、電車の吊り広告一つとってみても、はしたないのを通り越して非現実的なレベルに達しておりますでしょ。日本に来る西洋人の皆さんなんか、これを一目見て目を回すことになってるんですから。抑圧と言われてもねぇ…。ましてこっちは学生時代からユングに染まっているせいか、フロイト流がある程度を超えると「違うでしょ」と反応する。)

というわけで、エイリアンって怪物が出てくるんだから、そりゃやっぱし怪物でしょう。んで、怖い怪物ってのは、我々自身が心のどこかに抱えているから怖いわけですな。あるいは、より正確には、「心の中に抱えてるんだけど、それを認めたくないから見えないことにしている、だから非定形の「よくわからない物」になっている」ことが怪物性を生むということになりましょうか。何しろこの線で素直に考えれば、要するにこのエイリアン、我々の中の怪物なのだ。事実、映画の筋書きにおいては、文字通りまさに我々の中に巣くい、そこから飛び出して大暴れする。

エイリアンが我々の中に巣くう経緯もいやぁ〜な感じですよ。すなわち、人間の身体を宿主として生まれ、餌として育つ。つまり、別に殺意や敵意があるわけではないのだ。ただ、自分たちが繁殖するために人間を食べ物として使う。

普通の怪物モノであれば、我々とは完全に別のところに存在する怪物が、暴力的攻撃性をもってこちらに襲いかかってくる。だからこちらも暴力的に応戦する。あるいはヒーローが登場して怪物を退治したりする。ちゃんちゃん♪で終わる。我々は我々、怪物はあっちなのだ。

ところがエイリアンの物語を追っていると、どうしても「この怪物は自分の中にいる」と気付く。別に殺意も敵意も恨みはないけれど、自分が生きていくために相手を殺して食べる。我々が毎日のようにやっていることではないか。殺される相手にとってみれば、たまったものではないだろう。しかし生きていくというのはそういうことであって、こりゃもう仕方ない。

「こりゃもう仕方ない」とわかっているからこそ、見ていていやぁな感じがするわけであろう。その怪物は圧倒的に強い。妙に知能が高い。そいつに殺される。食われる。言葉は通じない。というか、「俺が生きるためにアンタを食うよ」という相手に対して理屈を並べても仕方ないから、仮に言葉が通じても無駄なのだ。

恨みっこなしで殺され食われる。これほど不気味な話があろうか。その怪物的行為を現実世界において自分も行っている。これほど不気味な話があろうか。この不気味二重構造の上に「エイリアン」という映画は乗っかっている。

なお、2作目になると、このエイリアンがわんさと大量に出てきて大活劇となる。決して知性的とは言えない米国海兵隊の面々がやられていくところが何かを語っているようだ…と言い始めるにはあまりにもあまりなB級映画になっている。3作目となると、丸腰の人間がエイリアンから走って逃げるだけという話になり、これはもう野卑なイギリス英語に興味のある人はどうぞとしか言い様がない(これはこれで楽しいけどね)。おまけの4作目となるともう怪獣モノである。

しかしまぁ、それもやむを得ない。「我々の内なる怪物」という不気味なテーマは最初に終わっちゃったのだ。すると、あとは昔ながらの「我々の外の怪物」ネタにずり落ちていくしかないのだ。するとどうしても子供向け怪獣モノになるわけである。(それはそれで楽しいけどね。)

その路線で突っ走るのがエイリアン対プレデターのシリーズである。さすがにここまで付き合う気力はないけれど、面白いことに、映画としてここまで来ると「子供に見せられないような場面」「子供に聞かせたくない言葉」は姿を消していく。つまり、名実ともにお子様向けになっているのだ。

「最初はオトナのテーマがあったけど、あとはキャラが独り歩きして子供向けになる」パターンはお馴染ですな。江戸川乱歩の怪人二十面相シリーズとか、ゴジラのシリーズとか。まぁ、そういうもんなんだろうなぁ。とか思いながら強烈に目が疲れた4本立てなのであった。目の疲れにはブルーベリーでしたっけ。まぁブドウ酒も似たようなもんでしょう。そうでしょうそうでしょう。