2009年8月28日金曜日

Snow Leopard に焼酎で対抗する

新しいオモチャは大好きであるから、新しいOSが出ると飛びついてしまう。こりゃもう性格というもんでして。したがって新しい Mac OS X の発売日である本日、早速入手してインストールしてしまった。

もちろん、安定性とかセキュリティに基づけば、「新しい=悪い」が大原則である。新しいものには飛びつかず、問題点も解決策も概ね出尽くしたところでスッと乗り換えるのが賢明な大人である。しかしまた、新しいオモチャに飛びつくのも楽しいではないですか。

特に今回の 10.5(通称 Leopard)から10.6(通称 Snow Leopard)への移行は、フツーのユーザーにとって劇的なものではない(実はOSの底の方からゴボッと組み直しているんだけど、お気楽ユーザーにはじぇ〜んじぇん気にならない)。「インテルマックでインテル対応のアプリを使ってるなら、この方が軽くて良いよ」というアップデートみたいな部分が大きいのである。

事実、我がMacBookで、単純にハードディスクのスペースで比較すると:

10.5 のとき
総容量 111.47GB
空容量 42.44GB
使用中 69.03GB

そのまま10.6にアップグレードしたら
総容量 119.69GB
空容量 55.22GB
使用中 64.47GB

すなわち、アップグレードしただけで12~13ギガ増えた感覚である。全体に動作も速くなっており、なんだか身軽になった。こりゃよろしいですな。っつーか、なんでそもそもの総容量が増えるのか。数え方を変えたのか。

誰でも「これまでのアプリは走るのか?」と思いますわな。QuickTime Pro をバリバリ使わないと仕事にならない身としては、根こそぎ新しい QuickTime が気にかかっていた…んだけど、何のことはない、新しいやつは面白いし、これまでの QuickTime Pro もそのまま「ユーティリティ」というフォルダに残る。両方使えるのだ。こりゃ便利。

なお、Power PC アプリを使いたい人はインストール時に「ロゼッタ」を入れればOK。のはず。あぁ便利。

しかしまぁ良いことばかりでもないですな。「あららら」と思うこともある。とりあえず問題2つ。

(1)日本語入力システムの egbridge が機能しない。まぁねぇ、egbridge 自体、「終了」した製品ですから、いつかは別れるしかないんですけど(なお「電子辞典ビューア」はちゃんとアプリとして走ります)。というわけで、目下「ことえり」でこれを書いております。

(2)知る人ぞ知る「iTunesのジャンル日本語表記問題」から逃げられなくなる。すなわち、iTunes上にある楽曲ファイルの英語ジャンル名が、再生した途端に日本語に変わってしまうという悪夢のような問題である。

10.5までは、(1)管理者アカウントに入る;(2)アプリケーションフォルダにある iTunes を選んでcommand+I;(3)言語メニューから「日本語」のチェックを外す…という手順を踏めば、iTunesは英語で走るので、とりあえず悪夢を回避できた。ところが 10.6 にはそんな言語メニューは存在しないのだ。なるほど、こうして軽くなったわけか。

というわけで、とりあえず今日のところは言語環境全体を英語にして使ってます。Finder もアプリも全部英語になります。

(なお、あとになって Language Switcher という無料アプリを発見。アプリごとに走らせる言語を設定できるという便利モノである。これがあれば…)

以上、いずれも「日本語が使いにくくなった」という問題である。英語の世界に押されているようで、面白くない気分である。他言語サポートをスリムにしたらこうなった、ということかもしれんけどねぇ、やっぱし英語による言語的帝国支配の空気を感じてしまうんですな。

くそ。面白くない。せめて食卓の上は守るぞ。今夜は豆腐(冷奴)と寿司と焼酎でいきます。では失礼。

2009年8月25日火曜日

エイゴという名の宗教、TOEICという名の御布施

TOEICという英語のテストがある。まぁ資格試験である。日本人と韓国人ぐらいしか受けないのであるが、ずいぶんなお金が動くテストであることは間違いない。日本で英語稼業をしていればこのテストの話をしないわけにはいかない。

したがって The Japan Times という日本の英字新聞に詳しい記事が出たのも不思議ではない…のは良いけど、こりゃ知らなかった。思ったより大きなお金が動いてますよ。講釈師業のネタを改訂する必要がある。大体TOEICの話をすると、お客さんはお金の話で驚くのであるが、どうも、すみませんでした。実際には、もっと大きな金額らしいですな…。

すなわち2008年における単純な売上だけで90億円近くである。支出としては、ETS(テストを製作している米国の「非営利」団体)に払う印税が推定15億円。前年比で倍増した理由は不明(というのがちょっとひっかかる;何があったんだろう)。その他、コンピュータを使って受けるスピーキングとライティングのテストが赤字、インタビューテストやフランス語のテストが赤字、中国に進出するための費用やら何やらで支出がかさんで…TOEICを主催する「公益法人」である国際ビジネスコミュニケーション協会(従業員156名)の推定黒字額は1億円程度。累計黒字は20億円近く。ここでちょっと首をかしげたくなる。売上90億で、黒字が1億?

さて、この「公益法人」に営利企業がいくつか絡みついている。人事から建物に至るまでズブズブに癒着しつつ、TOEICの問題集を発行したりスクールを経営したり、まぁ見事に持ちつ持たれつの関係である。

営利企業の目的は営利である。どれほど巨額の利益が出ても、更なる利益を追求して行動する。その幹部がどれほど高額の給料を取ろうと、とりあえず文句は言えない。資本主義の世界とはそういうものである。

んで、これらの営利企業との間でどれほどのお金がどういう形で動いているのかは不明である。つまり、売上90億で黒字1億の「公益法人」が顔にはなっているけれど、その実態は複数の営利企業が絡んだ関連企業複合体というわけである。「ビューティフル・エージング協会」なる不思議な団体も絡んでおり、もはやTOEICも英語もどっかに飛んじゃった世界である。

そんなTOEICであるが、公開テスト受験料が突然1割程度引き下げられた。普通、こういうのは、「来年度から値下げ」とかやれば混乱が少ないのであるが、いきなり値下げして、「もう申し込んじゃった人は後から値下げ分を返金しますから」というのだから、大慌てである。ふぅむ、どうしたんだろうねぇ。

…そんな英語のテストが資格試験として不動の位置を確立しているのが日本という国である。良くも悪くも、「お金の国、日本」である。

資本主義体制においては、常にどこかに大量のお金がダブつく。昔なら豪華なお寺を建てたり仏像を作ったり(西洋ならスゴイ教会を建てたり彫刻を作ったり)して何とかした。いや、今でも宗教団体がかなりのお金を吸収している。別に「教え」がどうのこうのとか「信じている」とかいう話ではない、広義の宗教がカネの流れ着く先なのである。振り込め詐欺も頑張っているが、やはり草の根活動に過ぎない。

言うまでもなく、日本においてエイゴは一つの宗教である。TOEICをめぐるお金の動き方、組織の絡み方は、それをよく示している。

…というような話をベラベラと喋るのが、我が講釈師業なのであります。哀しく貧しい薄給講師です。ダブついたお金に来て欲しいと思います。

2009年8月7日金曜日

書物と酒と今と昔

巷はすっかり夏である。道を歩く小学生の姿も中学生の姿も見えない。学校関係は夏休みなのだ。わはははは夏休みぃ。

そんな中、まだ大学講釈師業の業務が続く。今さら文科省のバカバカしさを嘆く元気も湧かんけど、大学が率先して愚かな振る舞いを演じなければならないのは少々寂しい話でありますな。

講師控室なるものに座っているうち、出番の時刻が近づく。英会話学校の日々、「さぁそろそろ拷問部屋(torture chamber)に入る時間だ」などと同僚と冗談を交わしながら業務を開始したことをふと思い出す。だんだん大学も英会話学校みたいになってきたなぁ。逃げても逃げても追ってくる。つい何十年か前まで、大学といえば(あるいは大学らしい大学といえば)、金持ちの中から選ばれた男性が身支度して行く場所であった。今は、まるで違う場所である。別に「悪くなった」わけではない。これは世の流れの常なのだ。

今ではインターネットなるものが普及して、つーまらない情報がわんさと得られるようになっている。有用な情報は少ない。心身の滋養になる情報となるとさらに限られる。まぁ、そうなるんですわな。ちゃんと良いものはあり、また悪いものもある。これは変わらない。

紙とインクによる書物にせよ、特にコンピュータ製版+安っぽい糊綴(のりとじ)の本がわんさと出るようになってからは、ずいぶん事情が変わってしまった。1行読めば1行分だけ成長させてくれるような本に出会うのが困難になった。別にすべてが悪くなったわけではない。マトモな書物はちゃんと存在している。読んでためになる本が相対的に減ったけど。まぁ、そうなるんですわな。

書物といえば立派な装丁の本だった時代は良かったとも言えない。金の力でつーまらない本を出し、それを大量にバラまくこともできた。「印刷術のおかげでくだらない本が増えたねぇ。俺達の頃はねぇ、借りてきた本を懸命に筆写したもんよ。近頃の若いもんはダメだね。第一、きちんと字が書けないじゃないか。学力低下だよ…」みたいなことを言った人も多かったであろう。

いやいや、その筆写とやらも書記言語あっての話である。世界には数千の言語が存在するが、文字を持っている言語は驚くほど少ない。言語とは、基本的に音なのだ。したがって、「俺達の頃はねぇ、村の長老が語る物語をそのまま覚えたもんよ。近頃の連中は何でも字で書いちゃうから、覚えようとしない。あれじゃ本当にわかったとは言えないね…」と語った人々も多かったはずである(ただ、それを書いてくれなかったから、今の我々はそれを知ることがないのである)。まぁ、そうなるんですわな。世の流れの常でありますな。

要するに、味わうに足るものも、つまらないものも、その中間のものも、色々あるわけである。どの時代でも同じ。仮に「昔の方が良かった」としても、それが今でも味わえるのであればそれは今のものだし、失われてしまったものであればそれはもう決して手に入らない。ひょっとしたら「未来の方が良い」のかもしれないが、それはまだ手に入らないのだから仕方ない。

以上、前置きでした。えーと、実はですね、先ほど『明治屋酒類辞典』というのを眺めていたんですな。これによると、紀元前4200年にはバビロンにビールがあり、紀元前3000年にはエジプトにビールがあり、紀元前1000年にはギリシャ人が葡萄酒を水で割って飲んだというのである。まぁこの水割りは水の消毒のためだろうとは思う…けれど気になる。そしてやはり紀元前4200年のビール! そのように記録が残っているからには、それなりの質を持っていたのではなかろうか。いずれにせよ味見してみたいではないか。ううぅ…

しかし、上記の理路により、まぁ基本的には変わらんだろう、うまい酒もあれば、そうでない酒もあったんだろう、という推論が導かれる。何かが違うような気がする人もあるかもしれないが、気にしてはいけない。世の中、そう変わりませんって。その意味では、我々は現在を生きつつ紀元前4200年をも生きているのだ。

そう自分に言い聞かせつつ安い発泡酒の缶を疑わしげに眺める。うむ。それにしても、もう少し贅沢しても良いのではないか。日本の教育の質を高めるためにも重要なことではなかろうか。うむうむ。やはりドイツの葡萄酒といってみるか。うむうむ。では失礼。