2010年2月8日月曜日

音楽が死ぬとき

「アメリカン・パイ」という不思議な歌がある。その歌詞では「あの音楽が死んだ日」という語句が繰り返される。実は某歌手の死を意味しているらしいが、まぁこの種の歌詞の意味はとりあえず勝手に感じ取ればよろしいのである。ちゃんと伝えたければズバリ言えば済むことだ。特にこの歌の場合、何しろこれを歌った本人が漠然とした歌詞ですから漠然とお楽しみくださいと言ってるんだから間違いない。

そんなわけで「あの音楽が死んだ日」という不思議な一節が不思議なまま耳に残ることになる。ある特定の音楽が死ぬ、それはどういうことだろう。ゆっくり食後の酒でも飲みつつボンヤリ考えたり、パブでグイグイとビールでも飲みながら仲間と喋ったりする。それだけなら楽しく贅沢なひとときである。

ところで、これにちょっと似ているのが言語の死である。これについては特に近年少しずつ知られるようになった。ディクソンという言語学者が「言語の興亡(The Rise and Fall of Languages)」という本を出したのが1997年である。一般受けして売れる本を書けるクリスタルという言語学者がそのものズバリの題名で「言語の死(Language Death)」を出したのが2002年である。その後ぐらいから、「○○語が死んだ」という話題が新聞の片隅に載るようになってきたようだ。

もちろん、この背後には、かつて植民支配によって相手の言語も文化も握りつぶした西洋諸国の罪悪感が通奏低音みたいに流れている。早い話、アフリカの少数民族の言語が死ぬ(つまりその最後の話者ないし話者グループが死ぬ)と、「あぁ○○語が死んでしまった(歴史的に見れば我々がその死を引き起こしたのだ反省しましょう)」という、ヨーロッパ諸国ではお馴染みパターンのニュースになるわけである。

えぇと、これのどこが音楽の死に似てるんじゃい、という話でした。いや、今朝方いつものように Songlines というポッド放送を聴いていたわけです(Songlines は、いわゆる第三世界の新しい音楽を中心に紹介する英国の雑誌;その簡約版が無料で聴けるんだから楽しい)。すると Orchestre Poly-Rythmo という音楽グループが紹介され、「昔は呪術的信仰(いわゆるヴードゥー)に基づいた音楽を作っていたが、キリスト教に転向してからは作らなくなった」というのである。聴きながら洗濯物を干してたんですけど、思わず手が止まりましたよ。え。音楽が死んだのか。死んだのだ。「その音楽」が死んだのだ。

近頃の西洋諸国では「心ある人ならキリスト教なんか卒業しましょうや」という空気が支配的になりつつある。もちろんその歴史的意義は否定しないけれど、宗教は卒業しましょうよという当たり前の話である。しかし、それでも「このアフリカ人、なかなかの才能の持ち主で、クリスチャンになった今ではもはや…をしない」という言い方を耳にすると、どうしてもキリスト教に基づく白人優越感覚を聞き取ってしまう。そんなものはないと信じたいが、今までが今までだから仕方ないじゃないですか。言ってる人の意識にそれがなくても、その言い方に何かがベッタリと張り付いているようである。考え過ぎか。そうであってほしい。

まぁ白人=キリスト教優越感覚があるかないかは置いといて、音楽が死んだのだ。しかも音楽家と共に死んだのではなく、音楽家の宗旨替えで死んだのだ。どういう経緯でそうなったのか。西洋的にはそこに優越感覚を感じるべきなのか、罪の意識を感じるべきなのか、さらに一歩進んで劣等感覚を持つべきなのか。さぁわからない。そんな想念が言語化される間もなく「その音楽が死んだ日( 'the day the music died'」というフレーズが頭の中で鳴り始める。そうなったら止まらない。さぁご一緒にどうぞ。

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自己紹介

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日本生まれ、日本育ち…だが、オーストラリアのクイーンズランド大学で修行してMA(言語学・英文法専攻;ハドルストンに師事)。 日本に戻ってから、英会話産業の社員になったり、翻訳・通訳をやったり、大学の英語講師をしたりしつつ、「世の中から降りた楽しい人生」を実践中、のはずです。