2011年7月1日金曜日

節電ファシズムに導かれて

また通勤電車で映画を見はじめる。講釈師業の期間が始まった4月ごろには「ニュルンベルク裁判」などを見ていたが、しばらく中断していた。暑くなるにつれ「まぁ映画でも見るかぁ」という気分になったのである。

シンドラーのリスト」は、スピルバーグらしくというべきか、見やすくわかりやすく面白くできている。ほとんどずーっと白黒で通すというアイデアも良い。

戦場のピアニスト」(←今し方調べたからこう書きましたが、原題に「戦場の」はない;まぁ題名が日本語になると不思議なことが起こるのはいつものことか)は、ポランスキーにしては普通だなぁと言いたくもなるかもしれないが、それなりに良くできている。

次に見ようと思っているのは「ショア」であるが、さすがにここで気がついた。なんでホロコーストものばかり見ておるのだ。自分でもわからない。

ホロコーストの話でよく出てくる場面のひとつに、理由もわからず殺されるというのがある。抵抗できないユダヤ人たちを前に、ドイツ人将校が「おまえ。おまえ。おまえ…」とランダムに引っ張り出す。そしてその場で銃殺する。

まったく理由はないのだ。生意気なヤツがやられるわけでもなく、目立たないヤツがやられるわけでもない。ひたすら理由がない。だから凍りついたような不条理感が生まれる。(時にはその場で殺されないこともある。とにかく、わからないのだ。)

理由があれば、理屈がつく。「どうして私が殺されるのか」と問うことができるし、あるいは「どうして私は助かったのか」と理由を探れる。ところが、まったく理不尽かつランダムに殺されるのだから、何を問うこともできない。しかし眼前の現実はあまりに残酷である。その結果、人は無力感に包まれて思考停止する。…ファシズムとはこういうものなんだなぁ、と納得する場面である。

そこでフッと気がついたのである。落ち着いた論理に基づく理由はまったく示されないままに「節電です。計画停電です」とやられる。従わなければ白眼視はおろか、事実電気を止めるぞという。この理不尽な空気、この不条理感、この無力感…。

そうか、それで何だかホロコーストものばかり見てしまっているのか。そうだったのか。

そう気がついてからも、やはり見ている。ホロコースト映画の世界、異常な節電騒ぎの日本の現実、あまりにもよく似ている。

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