2011年6月22日水曜日

ゼロ・デイ攻撃

Mark Russinovich というウィンドウズ系プログラマーがいる。ウインドウズについての詳しい教科書などを書いている(たいがい共著だけど)。この人が、なんと小説を書いてしまった。それが Zero Day である。



なんでも小説の書き方を教えてもらいながら書いたという(なんとマジメな人であろうか)。確かに(今のところ)プログラマーにしか書けない小説であろう。いわゆるコンピュータ・ウイルスが登場する。OSの最深層に潜り込んで姿を隠すrootkitである。しかもそれは IP アドレスによって攻撃対象を特定する。

すぐに発動するわけではない。世界中のコンピュータにばらまかれ、自己複製を繰り返し、さらに多くのコンピュータにばらまかれていきながら、その最深層に身を隠し、じっと待つのである。そしてある日、一気に作動する。すると特定の攻撃対象範囲にあるコンピュータが一斉に使えなくなる。飛行機が落ちる、タンカーが陸地に突っ込む、原発が暴走する。会社や銀行も取引データがパーとなり市場は大混乱となる。

誰がそんなものを作るのか。実は特定の誰なんだか、わかるもんではない。ウイルス・プログラムのかけらみたいなものはネット上にいくらでも転がっているのだ。ちょっとプログラムで遊ぶようなヤツならそれを拾い、組み合わせ、「こんなのが出来たぜ」とネット上の仲間同士で見せあったりする。時には確かに強力なものも出来てしまう。そんなフォーラムにヒョイと顔を出して「お、それいいね。買うよ」というヤツが現れる。誰が何に使うのか知らないけど、オレの腕が認められたんなら良い気分というわけで売る。

買ったヤツがさらに組み合わせてちょっとしたプログラムに仕上げた頃には、「そもそもこれは誰が作ったか」なんてわからない。強いて言えば、何となく反社会的な人々の集合意識というところか。しかし、最後に明確な攻撃意図と攻撃対象を持った人間が使えばこれは立派な武器である。

実のところ、これは小説ではない。十分すぎるほど本当に起こり得る話というか、実際に起こった話でもある。すなわち、例のイランの核兵器開発施設を標的にした Stuxnet というコンピュータ・ワームは見事に機能した。あれは去年(2010年)の夏ごろだった。「あれができるんなら、何でもできちゃうぞ」と思ったものである。

そしたら、「そうです。できちゃいますよ」という小説が登場したわけである。確かにいささか安っぽくアメリカ小説的なハラハラ・ドキドキの物語展開だけれど、それは読みやすくしてくれたのであって、話の中身は限りなく「今日のコンピュータ・セキュリティについて」という良質の教科書である。面白いよ。

2011年6月20日月曜日

ウェブのオバケ

ちょっと前まで、ウェブサイトと言えばちょっとタグのついた文字情報であった。画像があれば重いとされ、動画なんてとんでもなかった。ましてや勝手にプログラムが走るマイクロソフト社の ActiveX なんて犯罪行為と思われた。

ところが今やどこに行ってもプログラムが走るスクリプトだらけである。あまりに多いので、「目の前のウェブサイトが何をやってるんだか知りません」状態になってしまう。これは危険である。自分でキチンとわかっていないと、楽しいときにも張り合いがなく、困ったときには人のせいにしようとする。精神荒廃の第一歩である。

そこで Ghostery なのである。各種OS、各種ブラウザ対応。お使いのブラウザにプラグインとして加えると、見える見える。「このページにはこれこれのスクリプトがありま〜す。一応切っときましたね」とやってくれるのである。あらゆるスクリプトが悪だとは言わないし、切らなくても良いのである。しかし、それをユーザが選べるというのは重要なことではなかろうか。

ちゅうことで、オススメです。無料です。

2011年6月9日木曜日

武士道も空回りすると生兵法か

くだらないモノを読んでしまうことが多い昨今であるからして、良い書物に触れると「あぁやっぱり良いなぁ」という幸福感に包まれる。腹の底の方に暖かいものが感じられるほど、この幸福感は身体的でもある。そして「もうアホなことに時間を割くのはやめよう」というちょっとした反省感も頭をよぎる。

宮本武蔵の『五輪書』も、そんな「やっぱり良いなぁ」感を与えてくれる書物である。何しろ刀を振り回して殺し合いをする世界で修行を重ねた人の言うことだから、「こう構える。こう動く。なぜならば、こうだから」と話は徹底的に具体的であり、理詰めである。そして無駄がない。

ところがこの話、同時にフッとどっか大きいところに飛んでいる。「正しく明らかに、大きなるところをおもひとって、空を道とし、道を空と見る所也」と来たりする。これも理解できる。何しろ殺し合いの世界、良く考えてみると無意味なのだ。相手が憎ければ、実のところ放っておけば良い。放っておけば、相手はいつか必ず死ぬんだから(←これ河合隼雄の名言)。逆にまた、放っておかれれば、自分も必ず死ぬ身である。

というわけで、大きく生命をとらえ、死を見つめる目がある。それがそのまま「こう構える。こう動く」という話とつながっている。徹底的に具体的で理詰めの話と、どっかに飛んだ話とが見事に共存している。いや、そもそもこの両者に区別があってはならないのだ。目の前の具体的な現実と、頭で考えているだけの理屈とが、バラバラであってはいけないのである。バラバラになる方がオカシイのである。常に迷いなく、ピシリと道にかなった行動を取る。そこに両者の分裂はない。

そんな当たり前のことを思い出させてくれる名著であるからして、読めば思わずこちらも自分の精神の襟を正すことになる。ううむ、良いですよ、これは。

実は、以上を前フリとして、具体的な事実を理解しない人たちが「がんばっている自分に酔うため」に行っている根本的に無意味な節電活動とか、実は戦中戦後にも同じようなことがあったとか、バカバカしい英語学習熱も同様だとか、その他いろいろ列挙しようかと考えていたのだけれど、やっぱし、やめた。アホなこと・アホなものを気にする時間を割くのはやめよう。放っておかれても死ぬ我が身だ。幸福感に包まれていたい。そのためにちょっと良いお酒も仕入れてあるのだ。では失礼して、今から夕食の準備にかからせて頂きます。

2011年6月5日日曜日

今、何を聞いてらっしゃいます?

iPodに代表される携帯型再生機を装着して歩く人は多い。イヤフォン(ヘッドフォン)をして歩いているのですぐわかる。しかし、いったい、何を聞いておられるのか…。まぁ本人に聞いちゃえ。

というわけで、ニューヨークでやってみたそうです:


これはなかなか面白いネタなので、それから数日後にはロンドン編ができていた:


何となくお国柄も出ていて楽しい。モスクワとかマドリッドとか東京なんかではどうなるのであろうか…

2011年6月4日土曜日

アホ対応社会の弱点

日本にあるのは決してアホな社会ではない。アホ対応社会である。そう思いませんか。

どう考えても日本の人たちが本当にアホばかりであるはずがない。しかし、多くの日本人が集まった場所で見られるのは「アホ的行動」であることは否定できない。これは誰しも気付いていることであろう。

一人一人を見れば機敏に動く人が多くても、大量に集まった群衆はノロノロ動く。一人一人を見ればそんな説教は必要ないはずの利発な大人に向かって「お忘れ物のないように」という放送が流される。そして原子力発電所で事故が起これば、それを鵜呑みにするはずもない付近の住民に「大丈夫だから」と叫び続ける。アホ的行動としか言えない。

繰り返すが、どう考えても日本の人たちが本当にアホばかりであるはずがない。しかし、多くの日本人が集まった場所で表面的に見られるのは「アホ的行動」なのである。

無意味な節電を強要し、抵抗するヤツは非国民呼ばわりする。きちんと放射性物質を処理する自治体には「不快感」を表明する。異常に高い線量の放射能を放置した学校に子供を通わせておいて「がんばれニッポン」を連呼する。もちろんそんな学校には日本人でない子供だっているだろうに、そんなことはお構いなしのファシズム満開。まさにアホ的行動である。

なぜこうなるのか、理由はハッキリしている。「アホは上にいく」というディルバートの法則である。アメリカ式、そして日本式の、利益追求型株式会社的システムにおける動かぬ真実である。

すなわち、この種の利益追求型システムにおいては、現場が重要である。だから、有能な人や仕事のできる人は、現場にいなければならない。できないアホは上に行く。結構、当たってますでしょ。

目下、ファシズム的節電をわめくのは職場の上司であり、「上からの通達」である。現場の社員や店員やお客は当惑し、困っている。

原発事故の際に海水注入を指示したとかしなかったとか、無意味かつアホなことを言っているのは「上の人」である。現場では、ただもう命がけでことに当たっている。

非常識に高い放射線量を勝手に許し、放射能汚染された野菜を勝手に給食に回すのは「上の人」である。現場では線量を測定したり、子供にお弁当を持たせたり、ひたすら対処している。

ことほどさように、利益追求型システムにおいては「アホが上に行く」のである。ある意味、仕方ないことである。現場が大事ですから。

念のため逆を考えても、やはり納得できる。みんなの福利追求システムとは、アホを減らすシステムである。当然である。アホな人は幸福ではない上、周囲の人々を不幸にし、アホなことをする。だからアホな人を減らし、アホな事態に対応するのが肝要なのだ。つまり教育レベルを上げる。富を分配する。危険を予測し、事故に対処する。要するにみんながオトナになろうとするわけである。コストのかかる、地味な作業である。

そんなコストはかけていられないよ、というのが利益追求システムである。とりあえず手っ取り早く見かけ上の利益は得るため、現場からアホを消すため、上に送る。何も起こらなければ、これで儲かるのだ。何も起こらなければ、アホを組織上層に送って保護するという一種の福祉システムである。

以上、いささか大ざっぱにして乱暴ではあるが、アホ対応社会の特徴が明らかになった。したがって、その弱点も明らかになる。つまり第一に「アホが多い=不幸な人が多い」、そして第二に「富の分配がうまくいかない」、そして第三に「アホな事態に弱い」という弱点である。

この度の地震+津波+原発事故の流れに「日本の悪いところが露呈したぁ」という気分を持っている人は多い。確かに、その通りであろう。その「悪いところ」を解きほぐすと、要するに上のようなことになるのではなかろうかと思ったのである。もちろんクイクイとミュスカデのブドウ酒を調子よく飲みながら思いついたことでして、まだまだ飲み足らないところもある。至らぬ点については、これは大変申し訳ないので、最大限の努力を払うため、今夕さらに飲み重ねることにしているのでお許し頂きたいと思うのであります。

2011年6月1日水曜日

時代は変わった…のか?

つい先日、「こんな動画がある」という情報を見てYouTubeに飛び、その動画を見た。「あははは」と笑ってオシマイ。よくある話である。

ところがアッと言う間に同じ話をあちこちで聞くようになった。英国の新聞記事にもなった。へえぇ。と思って今見たら、何と1635万ヒットを超えている。ちょっと前までは考えられなかったような、ウソみたいなスピードである。

こうなったらもっと増やしてやるか。ということでどうぞ: