2008年11月26日水曜日

二極分化する軍国日本なのか

(以下の文章、きっと意外な結論にたどり着きますから、まぁ最後まで読んでね。)

錯視という現象がある。パッと2本の線を見て「こちらの線の方が長いに決まってる」と直感的に判断しちゃうけど実は同じ長さだったとか、あの類である。(楽しみたい方は「錯視」で画像検索でもしてください。)

確率についても同様の錯覚が起こる。硬貨を投げて裏が出るか表が出るかは基本的に五分五分の確率である。ところが表が5回ぐらい続けて出ると「もうそろそろ裏が出ないとオカシイ」と思い始めてしまうという、あれである。もちろん硬貨にしてみればさっき表だったか裏だったか覚えておらず、毎回毎回五分五分の確率なのだが、人間というヤツ、どうしても自分の思惑で世界を見てしまう。

ネズミもそうである。かつては「地下の食料倉庫にジャガイモの袋を置いておくとネズミが湧いて出る」と信じられていた。それはもう、経験と実感に裏付けられた理論であった。「他に可能性はない」と思っていたのである。

しつこいようだが、もう一つ。つい百年ちょっと前の日本で脚気が流行した。当時の軍隊で次々に死者が出る。ところが監獄の囚人は元気である。両者の違いは「麦飯を食べるかどうか」だったので、海軍では麦飯に切り替えた。すると脚気で死ぬ人が激減した。

この様子を見て「けっ、そんな筈があるもんか」と強情を張ったのが陸軍である。素直に麦飯に切り替えることもなく、有効な手も打たなかった。そればかりか、お抱えのエリートをドイツに留学させ、「麦飯を食べても脚気には関係ない」という論文を書かせて対抗した。その結果、日露戦争における脚気患者25万人、死者3万人近くという悲惨な結果を生んだ。

(ちなみにこのエリートが森鷗外である。こいつに良心はないのか。子供の頃から嫌いな作家であったなぁ…。)

以上により、(1)何となく思っていることって意外にあてにならない、(2)ムキになると無理を通して悲劇を呼ぶ、という人間の悲しい本質の二側面が確認された。これが目下進行中なのが、わが国における「小学校で英語を教える」という動きである。

「小学校で英語を教えるようにする」…これはあまりにも無茶苦茶な話なので、正気の人間が相手にする話題ではない。「子供の方が早い」というのは「ジャガイモからネズミ」レベルのウソである。文科省は「でもそれなりの効果がある筈」という理屈をお抱え学者の審議会で出させようとしているが、難航している(ちなみにその中教審「外国語専門部会」のメンバーは文科省の「方向性」に沿った人ばかり20名、小学校の現場の人がたった1名。そんな出来試合をやっても議論が難航するのである)。

それでもやるという。外国人講師を使うそうだ。全国に公立小学校は2万3千校あるが、小学校専属講師は121人(これは文科省が公表している数字)。どうするつもりなのか。これまで通り「民間で(正体不明の外国人を)雇う」というパターンを続けるつもりか。これまで通り大麻・覚醒剤・教え子への強制わいせつなど数知れない犯罪を生み続けながら。

いや、ホントの話、こうして真面目に書いているのがバカバカしいような話なんですよ。原理的にムチャクチャ。でもまぁやりたいって言うんだから良いかなと思いたくても、実際問題としてやれる筈がない。一から十までムチャクチャなんですよ。

それがグイグイと強引に推し進められている。その力学は以下の通りである。

日本において英語という支配者言語の持つ心理的圧迫は周知の通りである。特に戦後「アメリカ式合理主義」に向けて盲目的に突進した英語の出来ないオッサンたちの気持ちは察するにあまりある。彼らを非難しようとは思わない。

そんな脂ぎったお金持ちのオッサンたちが1991年12月臨時行政改革推進審議会の背後から「英語ができなきゃいかんよこどもにやらせようよ」という圧迫を加えた。これもまぁ、わかる。まずは「そうですねぇ」と聞いてあげれば良かったのだ。そして「皆さん英語が出来た方が良いと思われるのでしたら、皆さん自身で習得なさってはいかがですか?」とやんわり言ってあげれば良かったのだ。

ところが時の文部省は(お金も欲しいのだろう)彼らに耳を貸してしまった。ここらで話がおかしくなる。「国際理解教育」の一環として小学校における英語学習を実験し始めるのである。

もちろん、「国際理解」のためには、周りの人たちに耳を傾けて理解しようとする姿勢が必要である。相手が誰なのか考慮せずに英語を振り回してグイグイ自分の言いたいことを相手に押し付けようとするのは、その正反対の姿勢である。それをやるのが「国際理解」だという感覚、これは正気ではない。

この無茶な話の背後には「日本はアメリカ式合理主義に負けたのだ、これを乗り越えるのだ、こん畜生、とにかくアメリカみたいにやるのだ…」という深い心の傷があるわけである。懸命に日本を再建してきたオッサンたちの歪んだ叫びとして理解してあげることは出来るだろう。しかし、それとこれとは別問題である。

実はこの話、もう一つ奥行きがある。その数年前、1985年の段階で、アメリカは日本に対して「おまえ儲けすぎだろ。おまえががんばったら、俺が負けるじゃないか。そんなに働くなよ」という圧力をかけた。日本は素直に「あぁ日本人は働きすぎですわねぇ、ダメですわねぇ」とドンドン週休二日制を導入してみせた。学校もこれに従った。2002年の段階では中学校でも週休二日制となり、当然授業時間数も減った。いわゆる「ゆとり教育」である。

アメリカ式合理主義に追随しようとするあまりアメリカの言うことには逆らえない。「おまえが良い成績だと俺が一番になれないから勉強するな」という合理的な理屈にも逆らえなかった。悲しい話である。

もちろん、学校の時間数を減らせば学力は下がる。あまりにも当たり前の話である。特に語学なんてのは絶対時間数が決定的である。

当然ながら、2004年、経済協力開発機構の学習到達度調査で「日本の子供の学力低下は深刻である」という動かぬ結果が出た。「小学校英語を将来は全国に」と文科省大臣が発言したのと同じ年だっただけに、あまりのバカバカしさにここで大変な議論がなされる。

それでも「小学校で英語をやる」というのだ。まず原理として無茶だし、それどころじゃない筈だし、先生もいない。試験的に行った小学校からは「特に効果なし」という結果が上がっている上、中学校でちゃんと英語を学ぶ前から「英語がキライ」という子供を増やしているという実態もある。そりゃ、そうでしょう。やるなら発音指導の出来る講師がついて週5回ぐらいやる筈である。ところが実態は週に一度「あっぷる〜。さんきゅ〜」とか言って遊んでいるだけである。言語が身に付かないどころか、積極的にアホになりそうである。

それでもやるというのだ。いくら何でもオカシイ。これは、他に何かがあるに違いない。

そう思って調べてみると、以上の大騒ぎが進行してきたここ数年間、英検の1級・準1級合格者数は年々増加しているのだ。おやおや。さらにTOEICのある程度以上の点数取得者(一応795~で数えてみた)もガンガン増えているのだ。およよ。

こういった資格試験は子供対象ではない。青少年〜大人対象である。その人たちがバンバンやっておられるのだ。これはどうも「英語の出来る日本人を作るのだぁ。小学校から英語をぉ」という馬鹿騒ぎを横目で見て「こりゃ大変だ、文科省や学校には任せられん」と判断する冷静な人や企業が増えているということではなかろうか。

前述の脂ぎったオッサンたちには、実はさらに大きな計画があったのかも知れない。「小学校でも英語」という餌をまいておき、それに引っかかる人々を振り分ける、そういう計画である。これに引っかかる人々は当然英語を身に付けることもないし、そもそも国際理解なんてそれこそ理解の外であろう。「自分のことしか考えない」人々がかかる。うまいことに、子供の段階で「英語なんかキライ」という人々さえ出てきた。こういう人間が国際理解に至ることはないであろう。

こういう人でないと軍隊で人殺しをやってくれないのである。これは悲しい真実である。ちゃんと教育を受け、外国語の一つも学び、世界にはいろんな人がいるということを実感した人間は戦争に行ってくれないのだ。現にイラクやアフガニスタンで死んでいくアメリカ兵は、そのほとんどが教育も所得も低い地方出身者である。悲しい真実である。

すなわち、軍を抱える国としては(日本は世界有数の軍事国である)、納豆が痩せると聞けば納豆に走り、バナナが痩せると聞けばバナナに走り、やっぱり外国語は子供にやらせなきゃと思うような人々を一定数振り分けておきたいわけである。そこで、この度は文科省も抱え込んで一芝居打ってみたわけである。案の定、見事にかかってきた。相手のことなど考えず英語でグイグイ押しまくりそうな、いやその英語もキライになってくれそうな、軍事要員予備人員を確保したわけである。その一方、そんなバカな話からは身をかわす人もハッキリした。狙い通りといったところか。この背後に軍事大国アメリカがどれほどかかわっているかは知らない。しかし、これまでの経緯からして、冗談にならんかも知れないという気もする。

かくして人種や言語で区別のつきにくいこの国の二極化は、かつて福沢諭吉が喝破した通り、「学ぶ人、学ばない人」という形で浮かび上がる。「学ばせる人、学ばせない人」ではないのである。

(…以上、あってもよさそうな話でしょ。まぁ最後の軍事要員確保陰謀説はともかくとしてもね。少なくとも、「小学校で英語」という話は、それほどバカバカしい話なのですよ。)

2008年11月11日火曜日

脳もほどける八十一夜(←意味不明)

やっと気温が下がって「秋!」という感じの風が吹く…かと思ったら急に暑くなるし、蚊が出るし、梅雨みたいに雨が降る。先日乗ったモノレールでは冷房がかかっていた。もう11月だぞ。

こうなったら、我々が普通に培ってきた季節感をいくら懐かしがっても仕方ない。この調子だと、この日本は「暑い季節」と「ちょっと寒い季節」の二項対立しかない南国の島になりそうである。

日本の各種ビジネスにおかれては「これからは南国」ということで手を打っておられるに相違ない。英語教育も「南国の英語対応」ということで手を打つ必要があろう。南国になってからでは遅い。今のうちに、「このパパイヤはあのバナナよりも安いですよ」「新しい腰蓑の具合はいかがですか」というような例文を盛り込んだ教科書を準備しておく必要がある。

そんなわけでこちらも時代を先取りして、アフリカの音楽家の作品集とかギリシャのポップとか Souad Massi というアルジェリア生まれの歌手とかを仕入れて聴いている。ううむ南国。

(しかしどう考えても飲み物は北の方がウマイような気がするんだが…一般にスコッチも日本酒も寒い所で…まぁ良いか。南国でも北の飲み物を楽しめば良いではないか。そうだそうだ。)

…というアホなことを近鉄電車の中で書いているのだから南国を待つ身も平和なものである。もっとも、こんな駄文を書いている大きな理由は「インターネットにつながらないから」である。すなわち目下仕上げねばならない翻訳は、様々な薬の名前や実験装置の名前が飛び交うすさまじいものなので、調べないとわからないのでありますな。

つい先日までは下原稿を作るためにヒマさえあればカチャカチャと作業していた(したがってこのような駄文を書くヒマもなかった)。ところがとうとう「後で調べようっと」と思って残した箇所を片づける段になった。こうなると電車の中で作業というわけにはいかなくなる。やぁれやれ。できんがな。というわけでこうして日本語の文章を綴ることになる。

「当てにならないインターネットで調べるなんて、なんと不真面目な仕事態度」と思われるかもしれない。でもねぇ、調べる対象によっては、これしかないんですわ。とゆーか、インターネットがなかった頃は、こんなことできませんでしたよ。

例えば「○○薬を入れた試験管をABC装置のバルブに装着して」とかいう話になると、こちらには何だかわからないので、とりあえずインターネットで確認することになる。何しろ(最新の実験機器)ABC装置なんて辞書に載ってないし、当該メーカーに問い合わせるなんてのは最終手段だろうし、まぁ手頃な手段なのだ。

「そんなのわからなくても英語に直せば良いじゃない」と思う方もあるかもしれないが、もちろん言葉が相手だとそうはいかない。上の例であれば、「試験管」が複数形なのかどうか、「バルブ」が単数形なのかどうか、この辺りがわからないと言葉になってくれないのである。そこでABC装置の現物写真を眺め、その装置を大体どんなふうに使うのかをザッと調べることになる。できればこの器具について「(試験管を)装着する」はどういう表現を使うのか、メーカーのサイトなどで確認する。それでもわからなかったりする。疲れる話でしょ。翻訳とは、そういう作業なのである。

そんな作業をしていると頭の中の言語処理部分が本当に「どーかなっちゃった」ような気分になることもある。英語における単複の別や、日本語における長幼の区別(「兄」「弟」の類)をはじめとして、一方の言語では平然とフツーにやることが他方の言語では存在しない事例はよくある。んで、特にない方からある方へ置き換えようとすると、内容を与えてもらえない形式だけが頭の中で見事に空転する。翻訳作業中は、これをまとまった時間にわたって繰り返すことになる。

すると個別言語の文法に振り回されて知覚・思考を行っている「自分」というものがバラランとほどけてしまいそうな一瞬がやってくる。「ここにいる自分という現象は言葉の上に映写された像に過ぎない…今その言葉がバラランと解けた…そこに映写されていた自分なる現象はフニャリと周囲の暗黒空間に溶け込み…」という、台本にしたら前衛演劇も真っ青の現実が迫ってくる。危険。キケン。

おぉ駅につく。こういう人間が電車を降りて歩き始めるのである。ご注意。

2008年10月19日日曜日

豪州のブドウ酒…アッと言う間になくなるんですけど

注文していた豪州ブドウ酒1箱が届く。

おおおおぉ…

1ダース箱の筈なのに本数が少ないなどと言ってはいけない。もちろんこんな写真を撮る頃までには何本かゴクゴクと消費されているのだ。

あとは言うことなどない。ではこれから夕食ですので失礼。わははは…

2008年10月10日金曜日

ハクションの歌なのか?

講釈師業が全開になる。自転車に乗り、あるいは電車に乗り、あるいはバスに乗り、あちこちに移動し、移動先ではギグをやる。要するに road(巡業)というやつであって、バンド屋としては当たり前の生活である。

このロードがねぇ、喉に来るんですよ。いつもおんなじ泣き言を言いたかぁないけど、この町中の空気というヤツ、やっぱし狂ってますよ。講釈師業再開1週間ちょっと経過したら、もう喉がおかしくなってきた。これ、あと何年経ったら社会問題化してくれるのであろうか。

昔は某社の牛乳に砒素が入っていたといって問題になった。今でも中国の野菜やら牛乳やらにとんでもない劇薬が残留しているといって問題になっている。こうして問題になったら、消えていく方向に向かってくれるであろう。街中のタバコの煙もずいぶん減ったではないか。この種のことは、ゆっくりと良い方向に向かっているのだと思いたい。何年か経ったら「あぁ、あの頃の街中の空気はひどかったねぇ。体を壊す人もおったわいな。そりゃ、そうだわな」という思い出話になってくれると思いたい。

そういう希望を胸に抱いても、やっぱし現行の空気の悪さがズバリ喉にくるのだからどうしようもない。げほげほ。助けて。

と思っていたら今度は何だか体が重くなってフラついて熱が出た。なんじゃこりゃ。いわゆる風邪ではないのか。喉は悪化しボロボロ状態になったぞ。あらら〜。

ここで大事を取ってしっかり体を休めるのが常識ある大人である。それでも巡業を休まずギグを続けるのがバンド屋的ロード生活である。言うまでもなく我が生活は後者である。したがって自分でもなんだかよくわからないけれど何となく電車に乗って何となく移動し、ヘロヘロ状態でペラペラと一定の芸を行う。

不定期にカッと頭が熱くなったり急にジットリと汗をかいたりしながら、とにかく声の統御に集中する。ウッカリやってるとすぐ声が出なくなるんだもん。っつーか、声の統御で精一杯。あとはもう、自分でも何が何だかわからない。

規定90分のギグを三つもやると、もう自分などというものは意識できず、フラフラとした意識があちらへユラリ、こちらへヨロリと動いているばかりである。突然クシャミが連続で出る。ああぁ。クシャミは喉に負担なのだ。やめてえぇ。フラフラ。

そんなぼんやりした意識に何度も浮かぶのが、どういうわけか swan song という英語の語句である。ヘロヘロ状態の意識に去来する。何だか全然わからない。なぜだか全然わからない。

…んでまぁ、それが終わっての移動中である今、やはりヘロヘロ状態のまんま電車に乗ってるわけですが、やっとこの swan song を考える余裕はできたわけですな。白鳥の歌。ははぁ。洒落てますなぁ。白鳥は死ぬ直前に最後の美しい歌を歌う、あれを言うのであります。転じて絶筆を意味したりもする。

しかし自分のギグがそれほど美しいとは到底思えないし、死ぬ直前だとも考えたくないぞ。そもそもこの語句が朦朧とした意識に去来していた時には意味なんて全然考えてなかった筈だし。しかしひょっとしたら無意識にそういうことを感じていたのか。げげげ。

いや待てよ。まさか。あのクシャミ。白鳥の歌〜ハクションの歌。ああああぁこれではあまりにも情けないオヤジギャグではないか。しかしひょっとしたら無意識にそういうダジャレを考えていたのか。げげげ。

わからんままに電車は鶴橋駅に到着いたします。今日はギグがもう一つ。それは白鳥の歌なのかハクションの歌なのか、あるいは両方なのか。知らん。ああぁまた連続クシャミが来る。それはダメなんだ喉が痛いんだやめてくれえぇ。フラフラと電車を降りる。

2008年9月19日金曜日

芸人の苦労とは

落語の古今亭志ん生がこんなことを言っていて面白かった。

「まぁ、やはり、何か特殊の研究会だとか、三越の落語会だとか、東宝とかいうところはやりいいですね。あとはみな大衆で、いろいろな人が来ていますからね。だから、少ない客に何するよりか、大ぜいに向くようなことをしゃべっちゃうよりしようがないのですよ。だから、芸術というものはやれませんし営業ですわね(笑)。だから、その人たちが落語がどれだけわかるかということになるのですよ。だから、きらいな人にも食べさせなければならないということになってくるから、なかなか骨になってくるね」(『志ん生芸談』84-85ページ)

おおぉ。あの志ん生と我が身を引き比べるのは気が引けるけど、まさにこれは、大学という職場で講釈師として英語を切り売りしている我が身の状況ではないか。お客さんのニーズに照らすと、どんなに自分としてがんばっても的外れとなる。だから、学問とか何とかいうものはやれませんし営業ですわね、ということになるのである。

誤解のないよう付け加えるが、もちろんお客さんの質が低いと言っているのではない(いや、確かにお客さんの質はドンドン下がっているけど、まぁそれは別問題)。志ん生だって「客が悪い」と言っているわけではない。自分がやるのは落語であり、それがわかるお客がいないとシンドイねと言っているのである。

思えば数年の苦労の後、もう大学の講師は耐えられないと思い、やめようと思った期限が2003年であった(つまり「2003年にはやめるから」と思ってがんばったわけね)。ところが2003年の暮れにiBookとKeynote(プレゼンソフト)を手に入れ、「ちょっと話の練習をしよう」と思い、講師じゃなくて講釈師なら良いだろうとダラダラ続けてみることにした。

それからまた数年。「なかなか骨になってくるね」…志ん生の言葉が沁みる。

実のところ、翻訳業でも何でも同じような事情は当てはまる。要するに芸人職人の類は常にお客さんのニーズとずれるのだ。「自分の好きなこと」とやらをやらしてもらってるんだから、それぐらいは仕方ない。ただ、噺家とか講釈師(講師)となると眼の前のお客さんが多いので、その分ねぇ…。

先人はどうしていたのであろうか、気になってくる。日本における英語学で出色の人物といえば、まず市河三喜である。この人の『英語学』序文には、英語研究分野の文献を紹介する講座をやってみたがあまり成功しなかったという話のあと、こうある。

「…またいろいろな書き足しをして読者の興味をつなぐように努めた。…この書を読んでそこに紹介された碩学先輩の業績の一端に接し、さらに多くを原著について求めようとする心が起らない読者は、もっと興味ある学問なり仕事なりを他の方面に見出すべきであろう」

できるだけサービスはしたけど、これ以上は付き合いきれません、という気持ちが伝わってくる。これが書かれたのは昭和11年(1936年)である。読むと確かに楽しく面白い本である。が、やはりこういう一文を記さずにはおれなかったのであろう。

それより3年前、 Bloomfield の Language という本が出ている。当時の米国言語学におけるバイブルとされた有名な本である。そりゃ、そうでしょう。メチャメチャ面白いもん。まず話題が広い。観察が正確である。えーかげんな話も混ざっているかもしれないが、それはちゃんと調べればよろしい(これが可能であるということは、キチンと書いてあるということである)。「そういえば、ふざけてこんな言い方をすることがあるね」という実例があちこちに出てくる。要するに、ブルームフィールドさんはかなり楽しんでこの本を書いている。したがって読み手も楽しい。

…いや待てよ。っつーか、ブルームフィールドさんも、かなりサービスしているのではないか。もちろん、大学で講義したり本を書いたりするに当たっては、「ちょっと楽しい話も入れておかないとね」という配慮も必須であろう。それがどの程度のものであったのかは、わからない。でも、ある程度は志ん生の言葉が当てはまっていたのかもしれない。そんな気がする。

同じ年に出た Jespersen の Essentials of English Grammar もなかなかに楽しい。これは、すでに出版した(あるいは出版しつつある)自分の本に基づいた圧縮版ということになっている。とゆーか、自分の本をここまで丸写しすることもなかろうに(例えばこの人、今なら喜んでコピー&ペーストしていたであろう)。しかしまぁ、自分が10年前に書いたものを丸写しできるというのは、それだけ自分の書いたものが気に入っているとも言えるわけで、まぁ大したことである。

この人は別に膨大な文法書を書いている(というか、書きつつあった)。わざわざ(時には丸写ししつつ)一冊にまとめた文法書を書く必要はどこから来たのか。その序文には「自分の大きな著作を是非とも一冊の文法書にまとめて欲しいと請われ、何年も躊躇した後、出すことにした」という意味のことが書いてある。やりたいことは巨大な英文法書の完成であるが、ニーズとしては簡略な一冊本なので、それに応じたという図が見える。もちろん、それがダメというわけではない。それが職人であり、芸人というものなのだろう。

その仕事なり芸なりが達者であれば、良いものが生まれる。この一冊本の文法書にせよ、何かを「わからせよう」とか「伝えよう」とか「まとめよう」とか「読んでもらおう」とかいう暑苦しい意図がまるで感じられない。非常にわかりやすくまとまった、読みたくなるものができ上がっている。だからみんな読む。時が経っても読みつがれる。だから古典ということになる。ううむ、大したものですな。

しかしまた、その種の話が通じないと、文字通り「話にならない」ことになる。難しいものですな。ああぁ、来週から講釈師業の再開かぁ…。せめて少しでも先人にあやかりたいと願うのであるが、時には心身ともに疲れ果て、特に精神と神経が疲れ果て、「○○大先生、ちょっとこのお客さんの前でやってみてくださいよ」と言いたくなるときもある。そんな気分になったときには、その○○先生の本でも開く。すると以上のような感慨を持つのであった。

「いち抜けた」の勧め

この国の際立った特徴に「痛み分け」がある。具体的には、シンドイことやイヤな気分をみんなで共有することで和を保つという方法である。

長い歴史の中で発生し培われてきたものであろうから、馬鹿馬鹿しいと一蹴するつもりはない。しかしまぁ、見れば見るほど「悪いけど、いち抜〜けた♪」と一声発して身を引きたくなるし、事実そうさせていただいている。とゆーか、みんなでそうすりゃ良いんじゃないの。そしたら誰も痛がらずに済むでしょ。

見よ、近所の小学校では今日も運動会の練習に余念がない。当日に事故が発生しないよう競技の練習を通じて体の動かし方を指導するのかと思ったら、さにあらず。ただただ愚かしくやかましい音楽に合わせて行進したりグルグル回ったりするのみである。そして、「○○組の勝ちぃ!」という指導者の声に続けて「やったぁ!」と唱和する練習、これを繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し行うのである。もちろんその指導者は、ひたすらヒステリックに喚きまくるだけの女教師である。

早い話、専制国家におけるマスゲームの練習である。誰も本質的な動機を体感していない。誰も楽しんでいない。盲目的な愚かしさに引っ張られ、体の動かし方も頭の使い方もわからぬまま、みんなでイヤな気持ちをわけあっている図である。これを6年間お続けになった後、見事に役に立たない12〜13歳人口がポコポコ流出する仕組みである。

(人間が集まってこの種の全体主義的行動を取るようになる、それは指導者の知性が低く、教育レベルも下がったときである。学校でも会社でも宗教団体でも国家でもその例は見られるが、まぁ今の世の中なら「アメリカ」と一言申し上げれば一発で通じるであろうか。)

もちろん、その人口を吸い込む中学校でも高校でも同様である。誰も本質を体感せず、誰も楽しまない環境で、納得できない全体主義が進行する。その暴力から一瞬身をかわした一時を「楽しい思い出」と称して胸に記録することもあろうが、それはアウシュビッツ収容所における美談の類である。とりあえず巨大な不快が前提となっており、それを皆で我慢する。

ちなみに、こういう学校で否を唱えてグレたりする人間は、○○スクールというような「厳しく鍛えてくれるところ」に収容される可能性が高い。つまり、「おまえだけ不快から逃げるとは何事だ」というわけで、強制的に不快が割り当てられるわけである。もちろん、○○スクールに送り込む側の大人たちも不快な顔をしている。

そして大学でも企業でも同様…となれば悲惨であるが、実はそうでもない。さすがに人間ここらでアホらしくなるのであろうか、それともずっとアホらしさに気付いていた人間たちが大人になってちょっとずつ自分で行動できるようになるのであろうか。当然存在するはずの「みんなが楽しい」という選択肢を求め始める人々がハッキリ区別できるようになる。

しかし、いうまでもなく、「みんなが楽しい」ためにはボーッとしていてもダメで、みんながそれなりに働かねばならない。ところが、これは「みんな」がそう思わないと実現しない。一部の人がキチンと働くと、そこに皺寄せが行き、その人たちを押しつぶしてしまう。ありますでしょ、そういう職場。

そういう事情で、楽しく生きたい人がいても、それが「みんな」でない限り、なかなか難しいのですな。盲目的な愚かしさの力は暴力的に強い。

だからこそ、みんなで「いち抜けた」すればよろしいのであります。みんな抜ける。みんなグレる。

心ある人だけが抜けてもダメである。そうじゃない人だけが残るもん。目下の日本を見よ。首相という地位は誰がやっても不快、こんな国が楽しいはずがないではないか。

特に職場・団体なんかで「おまえなんかより大きな、大事なものが優先なんだ」という空気がドーンと存在している場所があれば、真っ先に抜ける。人間が集まっているんなら、一人一人の人間より優先されるものなんぞ、あるはずがないじゃないの。一人一人が不快なら、そこに幸福は存在しない。

みんなで抜ければ良いのである。そうすれば「一人一人の人間より大きくて大事なものがある」「そのために不快を耐える」といった幻想が消える。後に残るのはうまい酒とか、まぁそういうことになりますわな。別に能天気な発想ではない。現に、お金を追い回し安いものを追い回した揚げ句、有害な食品が流通しているし、お金を追い回し安いものを追い回して米国経済は破綻しているではないか。盲目的な愚かしさの力は暴力的に強いのだ。愚かしい「痛み分け」に付き合うと危険である。「いち抜けた」して縁を切るのが一番なのであります。

2008年9月16日火曜日

帰ってきたOED2

やれやれ、やっとOED2、すなわち「オックスフォード英語辞典第2版」がとりあえず見られるようになった。こんなことに何時間も使ってしまってアホらしかったわいな。というわけで、ちょいと覚書をしておくのである。

その昔、ウィンドウズ対応のCD-ROM版OEDを買い求めた(高かったなぁ…)。ところが世の中はあれよあれよと変わる。アッと言う間にアップル社製のコンピュータが入手しやすくなった(ついでにCD-ROM版OEDの値段も下がりやがったぞ)。しばらくの間はウィンドウズ機とマック機を並行して使っていたが、OSXが 10.2 になったあたりで「こりゃ勝負あった」と判断してマックに乗り換えた。するとOEDが使えない…。

(その後、OED初版を古本で頂く機会があった。ありがたいことである。これなら書棚から取り出して読むことができる。しかし、自分で買った第2版が読めないってのは…)

もちろん、OSXの上でウィンドウズを走らせる手段はある。特にインテルマックであればウィンドウズが堂々と走る。あるいは疑似的にウィンドウズ空間をつくることもできる(その名もQという無料ソフトもある)。しかし結局ウィンドウズOSを手に入れてインストールすることになるし、それにはお金がかかるし、仮にお金がかからない方法を見つけたとしても(←オイオイ)、何かと容量は食うし、いろいろ面倒である。OEDだけのために、ねぇ…

んで、どうするか。実は、OEDのソフトはウィンドウズ3.1でも走るのである。ウィンドウズ3.1というのは、DOS上で走るプログラムである。ということは、

(1)Mac OS X 上でDOSをやってくれれば良い
(2)しかる後、その上にウィンドウズ3.1 を走らせれば
(3a)その上でOED2が走る
(3b)っつーか、懐かしの Win 3.1 アプリがいろいろ走るよ…

実はこれを思いついたのは、今朝方シャワーを浴びていたときであった。何でこんなことに気がつかなかったのだろう。

(1)Mac OS X で 擬似 DOS を走らせてくれるのが、DOSBoxという無料ソフトである。こここんなものがあったのか。これがまた、ちゃんと走るのだ。ちょっとCPU食うけど。MacBookの画面にDOSプロンプトが浮かぶのを見るのは、なんとも不思議な感じである。20年ほど時間を逆行してコマンドを打ち込むのはもっと不思議な気分である。

(2)ウィンドウズ3.1は、Abandonware(捨てられたアプリ類)を集めた場所、例えば公の場所ならこういうところ(無料だけど登録が必要)などで手に入る。っつーか、そのへんでフロッピーが埃かぶってる場合も多いんじゃないでしょうか。

MacBookの上で Windows 3.1 がインストールされていくのは不思議な光景である。


っつーか、あの懐かしい3.1をマック上で目にするのはもっと不思議。


(3)CD-ROM版OED2は、基本的にプログラムとデータの2つから成立している。手元にあるプログラムは1.13というヴァージョンだけれど、実は昔のヴァージョン(1.10か1.11)が便利(これも上記の場所で手に入る)。なぜならば、これらのヴァージョンは、データCD-ROMのファイルをハードディスクにホイと載せて使えるようになっているからである。そりゃこっちの方が便利ですな。何しろ自分の金で買ったOED2を自分で使うんだから構うまい。

以上の基本ラインに添って半日格闘した揚げ句、ついに:


自分で購入したOED2がやっと見られるようになった。便利なんだか不便なんだかわからん世の中だが、やれやれである。さぁ大いに勉強しよう。

…と思ったら、やはり懐かしのWindows 3.1 のゲームとか時計とか走らせて遊んでしまうのである。誠にコンピュータは、生産性を高めるとは言えませんな…

2008年8月30日土曜日

音を聴く時間

やっと涼しくなってきたかと思えば、まもなく夏休みも終わりである。ああぁ。早いものだ。5時起きも排気ガスも電車通勤もタバコや化粧の臭気も忘れていたが、これがまた…ああぁ考えないようにしよう。楽しく充実した毎日を送りたいですからな。うむうむ。

とか思いながら、ドサ回り仕事用 MacBook の iTunesを眺める。こちらには語学関係とかネット放送番組とか通勤時に聴きたい曲とか新着ネタとかが入っている…が、移動時用の iPod nano に合わせてファイルを7ギガ程度までに抑える必要があるので、こうして休みの間に取捨選択を行なうのである。

で、その前に、さりげなく再生回数の多い曲を見るとですね、一番多いのが Gary Jules with Michael Andrews の 'Mad World' の20回。3分ちょいの曲であるが、合わせて1時間以上聴いていることになる。ひええぇ。

それから Porcupine Tree の 'The Sound Of Muzak' が11回(計55分)。Peter Gabriel の 'Whole Thing' が9回(計50分)。Boston の 'Corporate America' が8回(計37分)。再生を途中で止めるとカウントされないので、実際にはもっと聴いているであろう。へえぇ。忙しいとか言いながら、歩きながら結構聴いてるのねぇ。

待て待て。回数は少なくても、もっと長い曲があるぞ。例えばグールドの「ゴルドベルク変奏曲」は5回(計4時間以上)、金聖響指揮のベートーヴェン交響曲第2番は2回ほど聴いている(計65分)。シェーンベルクの「浄夜」は2回(計1時間)。

本も耳で何冊か読んだ。Orwell の '1984'(12時間)、Stephen Colbert の 'I am America (and So Can You!)'(3.5時間)、Al Franken の 'Lies and the Lying Liars Who Tell Them'(10時間)、同じく 'The Truth (With Jokes)'(10時間)なんかを歩きながら(あるいは電車に乗りながら)読んだ。これに加えて毎日2〜3時間(以上?)のネット放送は聞いている。

こうして考えると、ずいぶんiPodのお世話になっておるなぁ。っつーか、それでも「好きな音楽をもっと聴きたい」と思っている。フツーに本を読む時間ももっと欲しい。ああぁ。いっぺん仕事を辞めて、2年ぐらい音楽三昧・読書三昧で暮らしてみたいものだ。

…などと夢想しつつ、メインのiTunes(目下120ギガほどある;助けて)から音楽を選ぶ。これはこれで楽しい作業である。ああぁ楽しい。そして次の休暇が楽しみだ…。

ドラム叩きの休日

朝起きて淀川のほとりを走る。こういう健康な日課が復活するのであるから、夏休みとはありがたいものである。…と思った途端に二日酔いで走れない日が続いたりするのだが、それはまた別の話。

わずか3キロちょいの道程ではあるのだが、走るときにはナイキ+iPodを利用する。走った距離等々を勝手に記録してくれるし、何か聴きながら走れるので退屈しない。

このナイキ+iPodで便利な機能に powersong というのがある。その瞬間に何を聴いていようと、とにかくiPodの真ん中のボタンをグッと長押しすると、あらかじめ選んでおいた1曲に切り替わるのである。その曲が終わると、また先ほどまで聴いていたものの続きに戻る。普通はポッド放送でニュース番組なんか聴きながら走っているので、この「パワーソング」機能でパッと音楽に切り替わると新鮮である。

この「パワーソング」に選ぶ曲はコロコロ変わる。近頃気に入っているのは Peter Gabriel の 'Whole Thing' である(これは最近出た Big Blue Ball というアルバムに入っております)。その他、Sa Ding Ding の 'Alive' とか、浪速エクスプレスの 'Vacuum Vox' なんかも気分よく走れる。

(これらの曲をご存知の方は、「ん? そんな曲でどうやって走るんだ?」とお思いになるかもしれない。実はですね、その話なんですよ。)

さて、そんなのでペースを上げて走りながら気がついた。自分にとって、音楽のテンポと走るテンポは全く別物なのだ。聴こえてくる音楽のテンポは全く無視している。ノリないしうねりの良い音楽であればバンバン走れる。これには自分でもちょっと驚いた。

世の中の多くの人たちは「自分の走るテンポに合うテンポの音楽」を選んでリストを作っている。色々な曲のテンポを明示した「走るときの音楽を選ぶためのサイト」まで存在する。そういえば軍隊だって運動会の生徒だって行進曲に合わせて歩くではないか。パーティなんかでは音楽に合わせて踊るではないか。あれが普通なのだ。皆さん、音楽に合わせて動くのだ。

'Whole Thing' を聴きつつ、走るテンポを徐々に上げながら考えた。こうやって自分の走るテンポを上げていったりできるのだから、聴こえている曲のテンポには合わせとらん、っつーか完全に無視してるわなぁ。しかし、曲のノリ・うねりに合わせてる感じはあるわなぁ。ははぁ。やっぱ、ドラマーってことか。

ドラマーはリズムに合わせない。これは、ドラムを叩かない人にはあまり知られていない事実かもしれない。

もちろん、「ハイこれに合わせてね」とリズムを提示すれば上手に合わせてくれるであろう。しかし、実のところ、それはドラマーの仕事ではない。ドラマーの役割は、その場のうねりを引き取って、それを表出することにある。

これが習い性となると、日常生活にも持ち込まれる。とゆーか、「そういう人」がドラマーになるわけである。何かにカッチリ焦点を合わせ、それに反応するという行動は苦手である。むしろ、「その場にある何かを取り込んで何らかの焦点を造り出してそれに自分も合わせようとする」というややこしい行動をとる。

だからドラマーには「変な感じの人」が多くなる。目は相手を見ているようで見ていないようだし、何が欲しいのがハッキリしないし、それでいて何か探しているような物欲しそうな顔をしながら結局その場のテンポを引っ張ってしまうということになる。いるでしょ、そういう人。ドラマーなのですよ。

ずいぶん前に読んだ山下洋輔の本に「ドラム叩きはガイキチ」という小文があった。要するにドラマーはオカシイという、そのものズバリの内容である。

一昨年だったか、当時一緒にバンドをやっていた奴とばんばんビールを飲んでいたときもそんな話になった。そいつは「ドラマーはみんな狂ってる(mental)。これまでに何人も何人もドラマーを見たし一緒にやったけど、例外なし。みんな狂ってる」と断言していた。当のドラマーを相手に言うのだから大したものだが、まぁ多くのバンド経験の上で語っているのだからそれなりに拝聴の値打ちはあろう。

そう思ってふと振り返ると、もう20年以上ドラムを叩いている。もちろん中断もしているし、何より最近はめっきり練習もしていないし、大して上手くもない。しかし、どうやらそういう問題でもないらしい。世界から乖離して世界を見つつ世界を造り、その世界から乖離して…という無限グルグル運動においてリズムとうねりを生み出す。そういう矛盾した在り方が習い性となっているヤツはみんなドラマーなのだ。

そんなことを考えながら走ってシャワーを浴びて仕事にかかる。でもすぐ飽きて YouTubeでカール・パーマーのインタビュー(珍しい!ファン必見!)を見る。この人がこんなに長く自分の考えを語るのを初めて見た。結構上手にしゃべれる人である。相手の質問はキチンと聞くし、自分のやっていることについて素直に語れるし、いわゆるロック音楽屋にしては語彙が豊富だし、全体に流れが良い。

ところが何かが変なのである。目が泳ぐ。時として変に自分の世界に入る。自分の好みは語らない。自分のやっている音楽について奇妙なまでに客観的な位置づけを行う。あぁ。これは完全にドラマーだ。

この調子でギター弾きの性格、ベース弾きの性格等々を続けたいような気もするが、何しろ休日ですからな。本日はこれまで。

2008年8月16日土曜日

この種の性向も遺伝子なのか

数年前の話であるが、人間の言語を規定しているらしい遺伝子が特定されたというので話題になった。それはFOXP2という遺伝子で、これに何らかの欠陥があると普通に言語が使えない。

こういう発見は一般受けする。あぁそうか。何でも遺伝子で決まっているのか。人間の言語も、何だか知らないけれどもFOXP2で決まるのか。そうか。そうだと思ったよ…。というわけである。

難読症というのがある。字が読めないのである。学習障害の一種として知られている。そして、やはり難読症にかかわる遺伝子が特定されたことになっている。それはDCDC2と呼ばれる遺伝子で、これに欠陥があると難読症が引き起こされるというのである。

これがまた、受けるのだ。そうか。ウチの子は成績も悪く本も読まず困っていたけれど、DCDC2遺伝子に起因する学習障害なのか。あぁ良かった、とまではいかないにしても、何らかの納得と安心を得る。

統合失調という病気がある。日本語の世界では、かつて分裂病と呼ばれていた。人間理解の鍵を握るとも言われる、大きな謎に満ちた病気である。そういう分野であるからして、関連すると言われる遺伝子もNRG1、14-3-3η、SLC6A4、DRD2、CNR1、CNTNAP2、UHMK1その他いろいろ挙げられている。(もちろんこうやって書いている本人には、これらの遺伝子のどこがどうなっているんだか何なんだか皆目わからない。Natureのサイトからホイホイ書き写しているだけである。)

これだけいろいろ挙げられていることからも明らかな通り、この発想は受けるのである。あぁそうか。いかにも狂ったという様相を呈する典型的な精神病だから何だかコワイと思っていたけれど、遺伝子か。自己の病とか記号の病とか言われて現代哲学のネタになり、難しそうに思っていたけれど、なんだ遺伝子か。そうか。

他の分野でもこの調子で類例を挙げるとキリがないことであろう。何しろこの種の決定論的「説明」は受けるのだ。事実、この種の研究には結構お金が出たりする。つまり「売れる」のである。

もちろんこの種の性向は昔から存在する。遺伝子で決まっているのではないかと思いたくなるほどである。言葉が遅かったり字が読めなかったりする子供はバカと呼ばれ、しかし親は「バカな子ほどかわいい」という諺に支えられて、「神様に何とかしてもらおう」と神社やお寺に参ったりしたのである。もちろんそこには御賽銭箱や御布施袋が待っている。つまり、「これは神様の思し召しである」という説明が売れたわけである。

もちろん、「神の思し召し」ということにしても、「遺伝子で決まっている」ことにしても、本質的には何も変わらない。とにかく何かのせいにし、そしてお金を払うという構造である。

とにかく、自分のせいでもなく、自分の力の及ぶことでもないという説明は売れるのだ。「どうせ、もう、決まってるんです」という説明は売れるのだ。だから占星術も血液型性格診断も宗教的終末論も売れる(売れた)のだ。

いつの日か、遺伝子による説明は売れなくなるであろう。するとまた新しい説明が「発見」され、それが売れるであろう。物事はいろいろ変わりつつ、何かが変わらない。いつものパターンである。

そしてまた、いくら学習障害などと名前を付けても、しつこく強い差別意識が消えることはないであろう。「おまえ、学習障害かよ!」「あいつのDCDC2はボロボロ」といった言語表現が小学校発で広がり、やがて学習障害もDCDC2も差別語ということで使用禁止となることは容易に想像できる。

だから、今のうちにこうして書いておくのである。あーっはっは、FOXP2欠陥野郎。DCDC2グチャグチャかよ。SLC6A4かDRD2おかしいんでないかい。あははははは。

さて、この文章が「差別的だ」という判断を下されるまでに何年かかるでしょう。「10年以下」「10年以上」の二つにわけて賭けでもしますか。誰か乗りませんか。

2008年8月5日火曜日

ジャルコな日々

かつて「熱帯夜」という言葉があった。一晩中気温が25度を下回らない、そんな暑い夜を指す言葉である。ところが今じゃそんなのは当たり前、というか一晩中30度超えてますけど。先日なんか、一晩中クマゼミが鳴いてましたけど。暑ぅ〜。

こういう時には「暑い」「暑い」と口にしてしまうものだ。言ったって仕方ないけれど言ってしまう、これが言語という呪いをかけられた人間の宿命であろう。

そこでジャルコ。いやいや、日本語みたいにかわいく発音してはいけない。日本語で「ジャ」というと口の前方だけ、歯のすぐ後ろの空間だけでちっちゃく発音することが多い。これでは足りない。大量に息を吐き出しつつ舌を大きく後退させ、口の奥から大きく「じゃ」ないし「じゅゎ」という音を出すのだ。その際、唇は自然に前につき出すことであろう。それで良い。

次に「ル」であるが、これはいわゆる巻き舌である。(巻き舌の苦手な人は、単に「る」と言いながら大量の息を吐き出すだけでも良い…けど、ここはやっぱり強めの巻き舌が好ましい。)先程の深く強い「じゃ」の音の直後に出すにふさわしい深さと強さを保てばよろしい。

最後の「コ」は、それまでのことを思うと意外にかわいらしい音である。英語とかドイツ語みたいに強く激しい k の音を出してはいけない。フランス語や日本語みたいに柔らかめの「コ」である。ただし、母音に一工夫が要る。一番最後にフワッと口の力を抜くのである。日本語はある種律義な言語であるから、「コ」という時にはキチンと「コ」と発音し、その発声が終わってから口の力を抜くのが基本だが、ここでそんな他人行儀は無用である。自分としては発声の終わりなのだから、そんな自分の都合を相手に伝えてしまってよろしいのである。したがって、「コ」と言いながらすでに口の力を抜くことになる。すると、結果として「コヮ」ないし「コァ」みたいな音が出る。それで良い。それが良い。

では、以上を続けてやってみましょう。強く深く息を出して「じゃ」、同様に強く深く息を出して巻き舌で「る」、最後にかわいく「こゎ」。さぁさぁ、ボーッと読んでないで、ちゃんと言ってくださいよ。じゃ、る、こゎ。ジャ・ル・コヮ。ジャルコ。жарко.

これであなたはロシア語で、しかもほぼ完璧な発音で、「暑い」とつぶやいたことになる。どうです。少しの間、暑さを忘れてましたでしょ。そしたら、こんなバカなもの読んでないで、もうちょっと建設的な活動に戻りましょう。…っつーか、それにしても…ハイ皆さんご一緒に♪「ジャルコ!」

2008年8月4日月曜日

楽しいバグを保存すます

.Mac 改め MobileMe というサービス、出だしの頃はバグだらけで不評であった。いや、今でも不満の声を聞く。

そんな中、「メッセージがなまる」という報告を目にした。なに。そんな面白いことが発生するのか。どれどれ。

2008年7月17日木曜日

近鉄電車でボンヤリと

林檎社の iPhone G3 は発売以後3日で100万台を売ったそうである。よくまぁそんなにたくさん作っておけたねぇ。もちろん、この度はケータイ大好き日本人マーケットでも売り始めたのだから、気合いが入っていたのかも知れない。

こういう新しいオモチャが出現すると気になる気になる。っつーか、誰でも新しいオモチャは好きじゃわな。某英会話企業に勤務していた時、短期間ながら携帯電話を持たされた悪い経験があるのも一因で「あれはイヤですな」という結論が心身の隅々まで行き渡っているけれど、iPhone はなかなか楽しいオモチャだと思う。うふふふ。

しかし、オモチャ本体は良いとしても、「携帯電話」は料金がよくわからない。聞くところでは、日本の携帯市場における料金の情報提供方法は(いわゆる普通の先進諸国平均で言うと)違法レベルだそうである。すなわち、「月に○○円です」という表示があっても、結局のところその○○円を払うことにはならないという詐欺的表示がまかり通っており、「じゃぁ結局のところいくらなのか」と尋ねると、「料金体系の詳細」というカフカもビックリの不思議不条理世界に付き合わねばならない。キチンと正直な商売をしている感じがしないわけですな。

事実、この度の iPhone G3 にせよ、ソフトバンクの店員が「iPhone は△△プランでないとダメです」という虚偽の主張をして、高い料金設定の△△プランを売りつけていたケースが次々に明らかになっている。こうなりゃ完全に詐欺ですがな。まぁ、かつて街角でモデムを配布しながらブロードバンドの押し売りをしていた会社なんだから仕方ないと言わねばならないのだろうか。こんな場所じゃ、楽しいオモチャも大変だな。

ここでフッと思い出す。米国でiPhoneが発売された当初、「こりゃ楽しい。このままで電話機能がないやつが欲しい」という声があちこちで上がった。要するに、このオモチャは楽しい、だから携帯会社に悩まされたくないというのである。音楽も聞けるし動画も見られるiPodである。無線でインターネットに接続してサイトを見ることができる。メールの送受信もできる。iTunes音楽店に行って音楽を買うこともできる。もうこれで良い、というわけだ。

そうしたら、まったくその通りの iPod touch という製品が静かに出現した。電話機能と写真撮影機能がない点を除くと、要するに同じオモチャである。こうなると、どうも、こちらの方が林檎社の本命ではないかという気がする。誰も携帯会社に振り回されたくないのだから。

携帯市場そのものが悪いとは思えないものの、これは、英会話市場と同様、仮にキチンと商売をしようとする会社があっても、ガラの悪い大会社に押しのけられるという世界である(市場が飽和すると、あとはお客の奪い合いになるわけだから、そうなってきますわなぁ)。したがって、どんな会社でも、こんな世界と長期的に付き合うような企業戦略を立てたいとは思わないであろう。

およそ米国でもカナダでも携帯会社は嫌われている。そりゃ、そうだろう。「課金すべきではないサービス」と感じられているものを売っているのだから。誰かと話したければ、インターネットを介していくらでも話せるのに、どうしてわざわざ電話代を払うか。

そのインターネット接続も「課金すべきではない」と感じられている。その辺を歩き回ればいくらでも無線接続ができるもん。というわけで、インターネットサービスのプロバイダ各社も、これからは嫌われるしかない。気の毒な話だが、仕方ない。

なお、iPhone その他のオモチャが対応している GPS というやつも、嫌われるしかない。これは全然気の毒だとは思わない。何しろ GPS は米軍の持ち物である。「オレのだけど、無料で使わせてやるよ」と太っ腹を演じつつ、いつどこに誰がいるという細かい情報は一手に握っている。勝手に物事を変えたりやめたりして皆を振り回すこともできる。要するに、アメリカという国のやりたいことを凝縮したようなシロモノである。普通のアメリカ人も含め、こういうのを「良い」「便利だ」などと無邪気に喜ぶだけの人はいない。

しかし、この調子でやっていくと、楽しいオモチャであるはずのiPhoneにしてもその生産工程においては某アジアの国でひどい労働条件を生み出し…とかいう話になりそうだな。あぁそろそろ駅につく。では失礼。

2008年7月9日水曜日

ゴヤの部屋ゴッコに乗り切れず日本を見る

ゴヤは宮廷お抱えの画家であった。写真の無い当時のことであるから、それなりに肖像画の需要があったのである。「自分の死んだ後も何とか自分を残したい」という気持ちムンムンの金持ちの肖像画を次々に描く。それはどんな気分であったろうか。

ゴヤの腕前は、世界一というわけではない。うまいといえば初期ピカソの方が上手であろう。しかしゴヤの絵には何かスゴイものが噴き出していることが多い。それが何なのかと言われてもよくわからない。本人にもわからなかったであろう。ただ、描くと恐るべき何かが出るのであろう。

やがてゴヤも70歳を過ぎ、耳も聞こえなくなる。で、とある家に引っ越し、その家の壁に絵を描き始める。何しろ自宅の壁に直接描くのだから、見せるためのものではない。絵描きとして長年培ってきた腕前を自分のために使うんだから、贅沢な話である。一方、他人のためのサービスを考えなくても良いんだから、自分の内部のドロドロを遠慮も自制もなく表現することになり得る。

果たせるかな、ゴヤはとんでもない絵を次々に描いてしまった。昔からゴヤの絵のあちこちに噴出していた恐るべき何かがドーンと出てきたのである。しかし何しろ家の壁に塗り付けているのだから、これらの絵は文字通り門外不出であった。

やがてスッタモンダの末、これらの絵はカンバスに移され、外に出てしまう。これが「黒い絵」として知られる14枚の絵である。こうなってしまうと、もうバラバラの「絵画」になってしまう。「ゴヤが自宅の壁に塗り付けた絵」は永遠に失われたのである。

したがって、これらの絵がどのように描かれていたかについては、誰にもわからない。これらの絵の背景に田園風景みたいなものが描かれていたという話もあるが、やっぱりよくわからない。

ただ、「この絵はこの壁のこの付近に描かれていた(らしい)」ということは判明している…ことになっている。これら14枚の絵を「こんな感じで並んでいたらしいよ」ということで、ゴヤの家を模した部屋に展示することも可能である。

それを疑似的にやってくれているのが大塚美術館の「ゴヤの部屋」である。もちろん絵は複製だし、「部屋」といっても味気ない展示スペースが2つ並んでいるだけである(ゴヤの家の1階・2階を模している)。偽物もいいところだけれど、まぁそもそも本物の「黒い絵」にせよ、もはやゴヤの家には存在しないのだから、ここまで「ゴヤの部屋ゴッコ」をしてくれているだけでも良いことにしよう。

というわけで、半時間以上「ゴヤの部屋ゴッコ」に興じた。もちろんそこには殺人的スケジュールの中「大塚美術館で古代・中世の壁画等を偽物で眺める」という催しに参加したこと、新しい本を出したばかりの田川さんが「一休みしても罰は当たらないだろう」と仰ってその解説を引き受けてくれたこと、あぁ泊まった宿屋の露天風呂と鯛料理、おぉもちろん各種酒類、わはは海に入って遊んでワカメを拾ったなど様々な背景があるのだが、過密スケジュールを追っているとキリがないのでとりあえず省略。

偽物の「ゴヤの部屋」を歩き回りつつ、実物の絵と環境を想像し、できるだけそこにいるつもりになる。こりゃまさに「ゴヤの部屋ぞめき」だにゃ(「落語の「二階ぞめき」を知らない人、すみません)。

何しろそのための下準備として、同じ大塚美術館にあるグリューネヴァルトの祭壇画も見てあるのだ(こんなものの偽物まで置いてあるんだから驚きますよ)。これはフランスのコルマルまで行って実物を長時間にわたって眺めている。だから「ここの偽物がどんな感じの偽物か」ということを判断する基準になる。そりゃ偽物は偽物だから当然ガッカリするわけであるけれど、その気分を分析し、「何が欠けているか」の感覚をつかみ、それを偽物ゴヤの部屋に足せば良いわけだ。

というわけで、懸命に感覚の上での足し算を行いつつ、想像の世界に入って「ゴヤの部屋ゴッコ」を続ける。暗くて湿った感じで変な匂いがして葡萄酒はああいう味で聞こえるのはスペイン語で(でもゴヤには聞こえなくて)そんな中でこの絵の絵の具の感じはこんなので光はこんな感じで…みたいなことを皮膚感覚として「ゴッコ」するのである。普通、こういうことは子供の時にやってオシマイとなりがちだけれど、オトナになってもできるもんですよ。実際、スポーツの世界では「イメージトレーニング」(←このカタカナ何とかならんか)などといって積極的に使われるし、こういうのを実践する人が外国語の習得に成功することもわかっているし、まぁ「ゴッコ」もバカにできないのだ。

…とは言え、やはりゴッコはゴッコ。それなりの気分に浸れば浸るほど何だか空しいような気分がするのも否めない。あぁ。そもそもこの美術館全体が、世界の美術品の偽物をズラリと並べた、大規模な偽物博物館である。すべてが壮大なゴッコなのだ。

山に出かけず、箱庭を作る。英語もコンピュータも使わずに習おうとする。世界の名著も読まずにその解説を求める。実はこの種の「本物ゴッコ」は日本の得意技なのかも知れない。ならば、たまにはその得意技をやってみても良いじゃないの。そう自分に言い聞かせつつ、館内を喚きながら歩くオッサンや、キャァキャァ走り回る子供や、「何これ。なんかコワイ。いや」と言い捨ててゴヤの部屋から出ていくお客さんを眺める。あぁ日本だ。この人たちが3150円の入館料(西洋の有名美術館の基準からすればスゴイ値段)を軽々と払えるのだ。あぁ日本だ。

やれやれ、短い人生、せっかくだから日本の良いところを味わいたいものだ。日本の本物をね。まずは生酒あたりからはじめますかぁ。もっとも日本酒の世界もわけのわからない偽物に満ちてますから気をつけないとね。刺身も用意して…おっと、最近は産地偽装があるんですか。やれやれ、こりゃ大変だな…。

2008年6月11日水曜日

進化の不思議か…? 確かめる必要がある

やれやれ今日の大学業務が終わった。あとはオレの時間だ。…と自分モードに戻りながら道を急ぐ。その道は軽い下り坂になっている。こりゃ楽で良い。ホイホイと歩く。

すると前方を歩いていた人がポテンと転ぶ。足首にも膝にも力が入っている様子がない。両足がフニャフニャと崩れ落ち、全身が前に倒れ、両手を地面にペタンとつけていく。両足は蛙の如きガニ股に広がる。全身がべたりと地面に向かう。屈託のない、そして情けない、完全に幼児の転び方である。

へええぇ。職場のお客さん(学生)であろうから、もう二十歳前後のはずだが、それがあんな転び方をするわけかぁ。そんなおかしな感心をしながら道を急ぐ。

やがて電車を乗り継ぎ、駅につく。やれやれ。早く帰ろう。そう思って階段を降り始める。前方ではややヒールの高い靴を履いた女性がヨタヨタと階段を降りている…と、その人は「アッ」という声を上げて倒れた。

階段を下りている最中に倒れたのだから結構大変である。ケガもあり得る。やや緊張して観察しながら少しずつ近づいた…んだけど、様子がオカシイ。

すなわち、「転倒した」と思われたその人は、その一瞬後にはグズグズと全身が崩れ落ち、足にも腰にもまったく力が入らぬままへたり込んだ姿勢でズズズズと階段を下に移動していたのだ。両手も何となく力なく身体の両脇に添えている。まったく何の抵抗もない感じである。ただ、黙って、ズズズズと下に移動していく。それは、ある意味スゴイ受け身である。

ここに至って考えた。ううむ。こりゃ、何かが起こっているぞ。

数週間前に聞いたチョムスキーのインタビューを突然思い出す。人間の進歩に関連して、「中世の教会建築なんか見て御覧なさい。もう我々にはあんなのを建てることができない」と言っていた。要するに、人間はそれぞれの時代でそれぞれのことをやっているのだ。進歩したからといって、それまでやっていたことは全部やった上で新たに何かを積み重ねるのではない。生きている時間は限られているのだから。それぞれの時代において、それぞれの人が、それぞれのことをやるしかないのだ。

あのフニャフニャとした転び方についても、「もうかつてのようにしっかり上手に転ぶ人が少なくなった。子供の頃から体を使って精いっぱい遊ぶ習慣がなくなったからねぇ」と老人のように嘆くよりは、「おぉ、流れに逆らわぬ見事な受け身を習得する人が増えている。身体能力の進歩だ。進化だ」と喜ぶべきなのかもしれない。しかし、わからない。ううむ。

少なくとも、このあたりを解明するためには、あのフニャフニャ受け身をある程度自分でも実践できるようになってみる必要があるだろう。かつて拳法の練習に精を出し、後に少しだけ柔道の練習をしたことがある我が身にとって、これはちょっと難しい。が、だからこそ、それぐらいの技を身に付けるぐらいの手間を惜しんではいかん。所詮、その手の「正しい」とされる受け身なんて、アスファルトの地面や駅の階段やハイヒールを前提としたものではない。時代も場所も変わったのだ。それなりに考えて手を打たねばならぬ。

あれほど足元に力が入らないままにフラフラと情けなく崩れ落ちるためには、よほどのアルコールが入っている必要があるな。足に来るやつなぁ…ウォッカとか、焼酎とか、あの辺だな。うむ。人類の進化に付き合うためだ。やむを得ない。実験と。いきますか。うむうむ。

2008年6月4日水曜日

陽性米国が音になったらボストン…か?

どういうわけか(←わかっててゆーな)米国の音楽・バンドは聴かないのであるが、もちろん例外もある。サミュエル・バーバーの「弦楽のためのアダージョ」を否定するのは困難だし、ジョン・ウィリアムズの映画音楽の数々も楽しめる。サイモンとガーファンクルは黄金の定番だし、ドアーズは(もちろんジム・モリソンがいた頃の話であるが)何かとんでもないものが結晶した現象であった。…でもこうやって数えるぐらいしかない。

そんな数少ない例外のひとつがボストン(Boston)である。個人的な好みはさておき、この音は取りあえず聞いておく必要がある、そういうバンドである。デビューしていきなり猛烈に売れ、じっと何年も沈黙してから2枚目を出して強烈に売れ、それからじっと何年も…というパターンで着々と音楽を作り続ける職人芸バンドである。

しかし、バンドにありがちなパターンからは逃れられないのであろうか、彼らの頂点とも言える3枚目を出した後、看板ボーカルがいなくなった。辛うじて4枚目を出したけれども、もうかつての光がないと言われ(結構良い曲もあると思うんだけどな)、次に出たのはベスト・アルバム。要するによくあるパターンですな。

ついでに言うと、このバンドの中心人物のトム・シュルツの性向・趣味により、「子牛は(かわいそうなので)食べないようにしよう」「地球・環境を守ろう」「ちなみに僕たちは菜食主義者です」という類のメッセージをドンドン宣伝するようになった。

そりゃまぁ当初から「シンセサイザー使ってません!」というのを自慢していた連中であるから(とは言え今では使ってるけどにゃ)、もともとその気はあったんだけど、それにしてもねぇ。どうしてロックで売れるとこうなっていくのかなぁ。ボブ・ゲルドフもボノもみぃんなグリーンピースの回し者みたいになっていくじゃないの。だからダメとは言わないが、何だか鼻につくのも事実なのね。派手に売れた頃の放蕩生活の反動だろうと勝手に想像している。

あれれ何の話だっけ。あぁボストンの新アルバム。これがとっくに出ていた(2002年)と知った時には驚いた。げげ。いつの間に。あと何年かは大丈夫だと思っていたのに。

見ると「アメリカ会社(Corporate America)」という興味深い(というか、それだけで何を言いたいのかある程度わかる)タイトルである。おおおぉ。アマゾン米国の消費者評などを見ると結構評判が悪いが、そんなのをあてにしてはいけない。こういうのは自分で聴くしかない。というわけで早速インターネットの魔法で入手する。

聴いてみると確かに曲の作り方が変にダサくなっていて「完成度が低い」という評は否定できないけど、良いじゃないの。これは間違いなくボストンの音ですよ。

ボストンの音楽は「愚劣なまでに単刀直入な曲作り」を究極まで磨き上げて成り立っている。歌詞も素直にして単純明快である。特に深みも何にもないが、それで良いのである。「パーティーだ、楽しい!」とか「好き!」とか「ウジウジと過去を振り返るな!」とか「さぁ進め!」とかいった素朴で肯定的なメッセージを、やはり素朴で肯定的な音に乗せる。その技量が完璧なのだ。聴く方は素直にニッコリし、あるいはホロリとし、あるいは力づけられる。それで良いのである。

ボストンが道を誤り始めているとすれば、「ちょっとうまく作ってみようかな」という作為的意図が顔を出し始めたことであろう。ちょっと「効果的」にアコースティック・ギターを使ってみようかな。ちょっと「政治的なメッセージ」を含む歌詞も書いてみようかな。ちょっと「気の利いた」遊びも入れてみようかな。…これをやり始めたのだ。もちろん、こういうのはすでに大御所がいくらでもいる。もっと言うと、こういうのは努力の問題ではなくてセンスの問題である。だからマネしても仕方ないのだが、素朴な曲を完璧に作ったあとは、どうしてもそんなことがしてみたくなるのであろう。

という経緯で、「アメリカ会社」という、確かにボストンの音なんだけどボストンらしからぬ音楽に聞こえる作品ができたものと思われる。なるほどなぁ。こりゃ失望するファンもいるだろう。

でもねぇ、何だか許せるんですよ。だって、「ちょっとうまく作ってみようかな」という作為的意図が、見事ボストン的に、すなわち単純・素朴・素直・肯定的に、聞こえているんだもん。確かに音としては完成度が落ちたかも知れない。でも、そういう問題ではない。この「アメリカ会社」は、単純・素朴・素直・肯定的に音を造り上げるというボストンの姿勢そのものである。完璧に仕上げられた作為的意図…悪くないよ。

実はもう4度ほど聴いている。もうそろそろ飽きるだろう。今までと同じである。屈託のない高品質の娯楽。ボストンはこれで良いのである。

おわかりですか。何しろボストンなんですよ。アメリカの良いところが素直に詰まった場所ですわな。MITがあり(トム・シュルツはそこの学生だった)、ハーヴァード大学があり、もうちょっと範囲を広げるとペンシルヴァニア大学もあり等々、キレイな白人的アメリカが凝縮された一帯である。英語も比較的キレイである。(最近は日本でも英語をよくご存知ないのに「アメリカ英語は嫌い」などという人が増えたが、そういう人にボストン近辺の教養人の英語を聞かせたら「これはイギリス英語でしょう」などと間違うんじゃないか。ここら辺りが「ニューイングランド」と呼ばれているのにも(歴史的経緯を越えた)理由があるのだ。)

そういう場所で良い教育を受けた白人なら、何もひねくれる必要がない。アメリカのおいしいところを享受する立場にあればこそ、お互いもののわかった人間だという信頼の上に立って、素朴な歌を完璧に作ればそれで良かった。「環境破壊について、米国政府とタバコ会社の癒着について、バカどもにもわかるように教えてあげよう」などと思う必要はなかった。にもかかわらずそういう方向に手を出し始めた。…けどやはり素朴なものしか出てこない。

ある意味これは米国のどうしようもない陽性部分の具現化である。我々は米国の陰性部分をイヤになるぐらい見せつけられている。たまには「良いところ」「逆らえないほど素直なところ」を味わうのも良いじゃないの。深みも何もないからすぐ飽きるけど、忘れちゃいけない大事なことを思い出させてくれるボストン。だから時々聴きたくなるボストン。何年かに一度、聴きたくなる頃に新ネタを出してくれるボストン。これで良いじゃないの。事実、聴いているうちに気分が陽性になった。屈託のない良質の娯楽。これがボストンですわな。

終わっても終わらなくても終わる…のか?

目下多忙と寝不足でヘロヘロでも、田川建三さんの新約聖書概論という講座には欠かさず出かける。通い始めて何年にもなるなぁ。ひょっとしたら十年ぐらいか。げげげ。時の経つのは早いものだ。

いわゆる共観福音書の話から始まったその講座も、その最終段階、すなわち「ヨハネ黙示録」の話に突入した。これは新約聖書と呼ばれる文書集の中で最後に位置する文書であり、したがってホントに最後の最後なのだ。ううむ、ついに終わるのかぁ。ある種、感無量である。

この講座を聞く前は、聖書やキリスト教について何にも知らなかった。んで、今はどうなったかというと、やっぱり何にも知らないようである。それでも「こんなに何にもわからないのかぁ。そりゃまぁ、そうだわなぁ」ということが少しわかり始めたような気はする。ような気がする。とすれば、それはそれでそれなりに大したもんだとも言えるかも知れない。と思うことにする。(なお、それほど多くを教えてくれた人をつかまえて安っぽい同僚みたいにセンセイ呼ばわりする気にはなれないのが我が商売の呪われたところであり、だから田川さんは尊敬をこめて田川さんなのである。)

およそ新約聖書に収録されている文書はわけのわからないものが多い(2000年も前に書かれたものを読んでおいそれと話が通じる方がどうかしている)。その中でもヨハネ黙示録は極め付きに奇怪な物語である(だから愚劣極まる解釈・解説の類も多い)。ある時、こういうのは静かに座って読んでもダメだと思い、部屋の中を歩き回りながら始めから最後まで一気に大声で読んだことがある。それは確か New King James 版という最善とは言えない英訳であったが、それでもなんだか限りなく渦を巻くドロドロが感じられた。「ヨハネ黙示録はドロドロ渦巻き」というのが唯一手応えのある理解であった。

『キリスト教思想への招待』を読んだのはそれから十年以上も経ってからである。この本には問題のドロドロ事情の一部が書いてある。というか、この本の最終章は丸々ヨハネ黙示録の話なのだ。その章では、この文書がいかに「そう簡単に終わらせるわけにはいかない終わりの物語」であるかが解説されている(そもそも日本語で書かれたヨハネ黙示録のマトモな解説は珍しい)。それからさらに数年経った今、これを書いた本人からこのドロドロ話がさらに詳しく聞けるのだから、面白くないわけがない。

そう簡単に終わらせるわけにはいかない物語についての話であるから、そう簡単には終わらないであろう。すなわち「新約聖書概論」講座自体、そう簡単には終わらないことになる。実際、そう簡単に終わりそうにない。新約聖書という文書の話が、そしてキリスト教という極めて奇妙にして巨大な現象の話が、そう簡単に終わるわけにはいかないのだから。

それにしても月日の経つのは早い。この種の話に首を突っ込んで何年になるのであろうか。もっとも、対象が何であれ、首を突っ込んでじっくり時間をかけて身体化するというのが我が流儀であるから、少々時間がかかるのは仕方ない。それでも生命時間には限界があるから、どんなに終わっていなくても終わりとせざるを得ない時が来る。

試験なんかでも、終了時刻になれば、終わってても終わってなくても「終わり」である。職場でも、目の前の仕事が終わってても終わってなくても終業時刻が来れば「終わり」、これが世界の常識である。要するに、生きているとは、そういうことなのだ。ダラダラ残業など、自然の摂理に反する行為である。でしょでしょでしょ。

しかしまた、そう簡単に終わらせるわけにはいかない。生きているとは、そういうことなのだ。終わる時にはアッサリ終わるに決まっているのだが、そう簡単に終わらせるわけにはいかない。これを腹の底からの実感として理解した時に限りないドロドロが生まれるのかも知れない。

そのドロドロに終わりはあるのか。これを考えないとこの話は終わらないのだが、まぁ、またの機会にしますか。今回はこれで終わり。

2008年5月21日水曜日

夏休み宣言…できるのか?

連日5時起き生活が続く。さすがに眠い。動作が鈍くなる。思考に深みや広がりがなくなる。目の前のことだけが気になる。

その代わり単調な業務ができるようになる。しかし業務のストレスは増大する。小さなことが気にかかる。夜には酒を飲む。簡単な本しか読めない。

ううむなるほど、こうして実地体験するとよくわかるなぁ。人はこうして「組織の中の歯車」としてからめ捕られていくのかぁ。あまり何も考えず、心からの満足もなく、目先の快を求めて動く。その割には目の前の幸福を喜ばず、わけのわからない大きな幸福を漠然と思い描く(もちろんそんなものは存在しない)。

ううむ、プラトンが『国家』で言っていたような話ではないか。待て待て、資本主義社会において労働者につきまとうマルクス式「疎外」(これも変な訳語だなぁ)の手触りに近いではないか。などという思考もここら辺りで力尽きてどーでもよくなり、とにかくビール飲んで寝ます明日も5時起きなんだもん。となる。ひえええぇ。

「疲れた」
「休日は寝ていたい」
「何だか面白くない」
「今日は何もしなかったような気がする」
…等々、頭の悪いオトナたちの不潔な決まり文句と思っていたが、何のことはない、自分もその中に沈み込めそうな勢いではないか。うげげげ。

とは言え、ここまでわかっているのだから、逆に手を打てばよろしいのである。すなわち、充分に睡眠をとって眠くないようにする。すると動作も機敏になる。思考に深みや広がりが生じる。目先のことばかりにとらわれない広い視野が生まれる。

単調な業務には飽きるだろうが、それはそれで好都合。もっとやるべきことが見えてくるのだ。業務のストレスも減る。

夜に飲む酒も、ストレス解消のためではなく、「おいしいから飲む」という本来の姿になる。中身のある読書も楽しめる。こういうのが人間らしい生活というものだ。

…ここまで夢想したのは良いけれど、やっぱし明日は5時起き。そいでもって、過密スケジュールに加えて翻訳を引き受けてるんだよなぁ。ああぁ。これが論文でねぇ。いつもの調子でチョイチョイと片づける類のものではなくってねぇ。ああぁ。

こうなったら夏休みモードになるしかない。というわけで、えー、すみません。もう夏休みですので。趣味にも翻訳にも没頭します。酒もおいしく飲みます。皆さんよろしく。では電車が目的地に着きましたのでこれで。

2008年5月1日木曜日

果てしなき音遊び(ヘッドフォン推奨)

たまの休日なのでボーッと座ってパラパラと雑誌をめくる。すると Portishead の新しいアルバム('Third')が紹介されている。おおおぉ。まだ生きていたか、あの絶望的電気音と暗黒ボーカル。好みかどうかはともかく、とにかく聴いてみたいな。

と思いついて立ち上がって20分後にはもう手に入っているのだからインターネットとは大したものである。んで、その翌日の出勤途上、すなわち今、こうやって聴いているわけですな。ううううむ。この絶望的電気音。この暗黒ボーカル。こういう音を作っても生きる力が残っているというのはスゴイな。

これに限らず、最近は妙なものばかり聴いている。もっとも、もともと妙なものばかり聴く傾向があるのも事実ではある。しかし、それにしても最近は妙な音が多いな…。

(↑最近のネタいくつかを38秒に押し込んだ)

いや、もう少しマトモな音もありますよ。かつてFMラジオ(←死語)からカセットテープ(←死語)に録音して何度も何度も聴いていたモンテヴェルディ「オルフェオ」(の2曲目)をついに図書館経由で手に入れた。これは公平に見て(聴いて)キレイな曲ですよ。仕事で疲れた体を引きずって帰る時なんかに聴きますと「あぁ世界は美しい。くだらぬ人間やくだらぬ事柄に気分を悪くする必要なんかない」という確信が心の底から湧き上がります。

世の中にはこういう良い曲が存在するのだから安心だ。これなら少々おかしな音を作っても大丈夫だろう。というわけで、米国イリノイ州在住のアダム君と「インターネット経由多重録音セッション」という実験を始めることにする。あっちはギター、こっちはドラムである。

(↑その手始めがこれ;轟音注意)

もちろん生身の人間が集まってセッションするのが一番面白いことに変わりはない。この度の連休を利用してやすQ兄、sin5師匠といった古顔と無茶苦茶な音を出すことになっている。またこうして音でもさらすか。ああぁ聴いても演っても楽しい音遊び。えー仕事って何のことですか。

2008年4月24日木曜日

日本:イスラム説…無理か

いわゆる西洋文化圏、典型的にはヨーロッパなんかにしばらく滞在した経験のある方なら(というか、こういう時代ですから、そんな経験などしなくても)ご存知の通り、一般に西洋はオトナの世界である。ドアの把手の位置は高く、流しや洗面台の位置も高い(別に彼らの背が高いわけではない;フランス人やイタリア人の身長なんか日本人と同じくらいでしょ)。ちょっとした階段や手すりやエスカレータなんかも、子供やお年寄りにはちょっと無理かなという構造のものが多い。登山コースには「こここれは怖いぞ危ないぞ」という箇所がザラに出てくる。

ついでに言うと、乗り物でも買い物でもサッサと物事が進む。道を歩く人も比較的しっかり歩いている(日本では靴の歴史が浅いせいもあってか、足に合わない靴を履いてヨロヨロ歩く人が非常に多いため、その差が目立つ)。道路の制限速度も「そりゃこの道でそんなに速く走ったらアブナイわな」と思える、言わばホントの制限速度である。会話には常にジョークがつきまとうし、テレビのコマーシャルなんかも、ニヤリと笑わせるものが多い。「えーと、今の話って何が面白かったの?どうしてみんな笑ってるの?」という人が仮にいたとしたら、それは子供ということになっている。

この調子で例を挙げればキリがないが、早い話、何らかの理由で体が弱い人やボーッとしている人はついていけない確率の高い、オトナの世界なのだ。

(これに慣れてくると、電車の中で次の駅の名前を連呼したり忘れ物をするなと繰り返しお説教をする世界、安っぽいガキ相手の広告や看板が町に溢れる世界が不思議に思えてくるものだけれど、別にそんな日本が「悪い」と言わなくても良いでしょう。まぁ、これから成長するのだ。)

んで、子供やお年寄りや種々の障害のある人はどうするのかというと、それ用の設備や場所を「そういう人はこちら」とばかりに用意してある。それが弱者に対する思いやりとか福祉とかいうものである。

一方、我らが日本はそこまでいってないというか何というか、「みんないっしょ」にすることが弱者に対する思いやりだという発想が随所に張り巡らされている。子供にも手の届く洗面台、お年寄りにも使える階段、障害者と共に学ぶ教室、等々を用意して、皆さんがこれを使うのが平和という発想である。したがって、多くの人は弱者に「合わせてあげている」格好になる。パッと見たところ全体のレベルが低いように見える。

(確かにこれでいくと「全体が足を引っ張られる」というマイナス面がある。その一方、多数者が「別に自分はそこまで低いわけじゃないんだけどね、合わせてあげてるの。あぁなんて優しい私」という気分を持って安心できる側面もある。別に悪いことでもないでしょう。また、心身に重度の障害を持つ人たちはまるで完全に隔離しておきながら「私達はみんないっしょに暮らしている」という幻想に浸ることもできる。これはちょっと悪いかな。何しろここらのバランスが微妙に揺れ動いてこの国の特徴の一大側面を形成している。)

さて、えー、以上は前置きだったのでございます。それでですね、数年前に「女性専用車両」なるものが出現した時には「こ、これはえらいことを始めちゃったのね」と思ったわけですよ。もちろん決めつけはできないけれど、この国には、上記の通り、およそこの種の隔離を明るく実行する土壌が稀薄である。「みんないっしょ」じゃないと角が立つわけです。

これが「中国人専用車両」とか「在日韓国人・朝鮮人専用車両」となると、皆さんは「ダメ!いけまちぇん!」と言うに決まっている。それは例えば米国で「黒人専用車両」とか「ユダヤ人専用車両」が不可能なのと同じことである。

ここで、「いや、そういうのは人種差別であって、痴漢犯罪防止とは関係ないでしょ」とは言えないんですなぁ。米国で黒人問題の討論をすれば必ず「でも、実際問題として犯罪者に黒人が多いのは事実なんだから市民を保護するために何らかの隔離もやむなし」という意見が聞かれる。

要するに、この種の区別は差別と区別がつかないのだ。この種の差別は区別と差別がつかないのだ。こんな言葉遊びができるほど、その境界は曖昧なのである。

この「女性専用車両」なるものがいかに不可思議なモノであるかは、その背後にある論理を探ろうとすればすぐわかる。なぜなら、いわゆる普通の意味での論理は存在しないからである。すなわち痴漢犯罪をなくすことと女性専用車両を用意することとの間には何の必然性もない。女性専用車両においても痴漢はあり得るし、女性専用車両の外なら痴漢犯罪があって良いわけでもない。

論理的に成り立つとすれば「痴漢専用車両」を作ることであろう。これなら、痴漢の皆様はこの車両に乗れば良いのであり、その被害に遭いたくない人はこの車両を避ければ良いのである。ところが、それはやらないでしょ。理由は簡単、痴漢の皆さんが正直にその車両に乗り込むことも考えにくいし、その被害に遭いたい人がそこに乗り込むことも考えにくい。というわけでしょ。これに対して「当たり前だろ」と真顔で言い切れる人には、「んじゃ、女性専用車両って何なんです?」とまっすぐ問い掛けてあげたい。当たり前の答は返ってこないであろう。

ということは、この「女性専用車両」というヤツ、文字通り素直に受け止め、普通に考えてもわからないのですな。

結論から申しますと、これは「男子禁制車両」なのであります。なぁんだ、と仰るなかれ。ここがこの国の微妙なバランスなんですけん。

男子禁制。何とも古式ゆかしい感じでしょ。実のところその通り。現代これを実行しているので有名どころはイスラム諸国でしょうかな。家には男性禁制の奥の間があり、女性はできるだけ顔や皮膚を隠す服を着て…という、あれである。別に古いからダメというわけではないけれど、まぁ今の世の中においては古い発想とされている。良い悪いではなく、オトナになるとは、そういうことなんですな。

実は日本の皆様もそういう古い発想に気分のどこかで納得できるものを感じているのであろう。事実、古い風習を伝える相撲とかお寺なんかの世界には女人禁制の場所がある。同様に男性禁制の場所も「何となくわかる」土壌があるわけだ。しかし、それが醒めた現代生活の文脈に合わないこともよくわかっている。

一方では、言葉にならぬ古い風習に対する一種の憧憬(…があるとはハッキリ認めたくない)。一方では、技術大国ニッポンの、そしてしばしば「無宗教です」と胸を張る日本人の、醒めた現代感覚(…のために理屈をつけようとして非論理に陥る)。この2つに挟まれた空間に、「女性専用車両=男子禁制車両」はポカリと浮かんでいるらしい。

そう考えると、この女性専用車両なるものが持つ何とも奇妙な感じにちょっと説明がつくように思える。実は隔離でも差別でもなく、単なる男子禁制への逆戻りに過ぎず、「みんないっしょ」原則にぶつかるわけではない。でもそれを醒めた意識のレベルで認めたくない気がしている。この辺りに、この国の持つ「何とも奇妙な感じ」が発生する微妙なバランスがあるようである。まぁ、試しに西洋人に女性専用車両を詳しく説明して御覧なさい。少なくともどこかで以上の理路を通過することでしょう。

2008年4月18日金曜日

借金取りには超越モードで対応

およそ借金をしたことがない。そりゃもちろん「あ、ちょっと200円貸して」とか「今夜はごちそうさま。今度おごるよ」的なことをやらないわけではないけれど、実はそれも抵抗あるぐらいである。要するに、「あぁこの金は返さにゃならぬ」という気分でまとまった金を借りる習慣がないのだ。っつーか、怖くてできない。クレジットカードを使う場合も常に「一括払い」である。存在する金しか使わない。(…と自分では思っている。のがアブナイのかも知れんなぁ。)

これは、通貨が記号化して独り歩きする資本主義社会においては損な性分である。金利が安い時にドーンと借金して家でも買って、その家を担保に更なる借金をするとともに、家の値打ちが上がったところを見計らって売り、同時に次なる借金をして…というのが、現代の日本や米国みたいな「お金の国」においては要領の良い、賢い身のこなしなのかも知れない。

もっとも、それをやり過ぎた米国を見よ。特にこの10年ばかり「存在しないお金」がグルグルと社会を駆け巡って経済を支えていたことが明らかになってきた。んで、「ところで、そのお金はどこ?」という話になった途端、経済の根幹からグズグズと崩れ始めている。それを思えば、借金怖くてできませんという性分も、ある意味健康で良いではないですか。

ではどうして借金取りの影におびえねばならぬのか。実はですね。久々に大学という職場に戻って業務しているわけです。すると久々にSくんにも会う。まぁ同僚というか元バンド仲間で飲み仲間のニュージーランド人である。いろいろと与太話をするうちに「またビール飲みに行こうぜ」といつものノリになった。

途端に思い出した。そうだ。この前こいつと飲みに行った時には徹夜になったんだ。んで、最後に行った店の支払いをせずに帰ったのだ。あぁ思い出したよ。げげげ。

顔色を隠しつつ、「あはは、たしか、こないだの借りがあるから、今度は最初の何杯か払うし」と付け加える。あぁ。借金を返す義務とはこういう気分か。あっちは「あーそうだった」と喜んでいる。くそ。貸した方は余裕の気分か。まぁこの人の場合、実は引ったくりの被害に遭ったばかりなので、いずれにせよ同情杯を何杯かおごられるべきかも知れぬ。

Lくんとも顔を合わせる。「どーもどーも、こないだはどーも」と無意味な挨拶を言い始めて気がつく。あ。借金。

春休みの間に翻訳を何本かやったが、そのうち3本でこの英国人のLくんに手伝ってもらったのだ。それでお代を頂くからには、その一部をLくんに回さねばならぬ。っつーか、そういう契約で雇った形なのだ。「あぁ、あれね、こっちもまだお代をもらってないから、申し訳ないけど、ちょっと待ってね」…あぁ借金とはこういう気分か。あうぅ。

ついでに記憶が甦る。そう言えばあの医療器具紹介ビデオには苦労したなぁ。英語のビデオをもとにまずは英語の原稿を作るのだが(依頼人は翻訳が必要な人のはずなのに、何でそんなものが要るのだ)、それがなかなか難しい。そのために雇ったはずのLくんにもわからない。仕方ないので内容をジワジワと理解していきながら仕上げていくのである。

あぁ、そう言えば最後の最後でやっとわかった語句があったな。ある医者がスルスルと喋っているのだが、その問題の部分で何を言っているのかわからない。そもそもこの人、時々つっかかりながら懸命に喋っている。しかも問題の語句の音は「ひゃらほれはれ」とハッキリしない音が並ぶ。さらに、その箇所には、ビデオに起因する雑音が「ザザッ」と入っているのだ。こりゃ誰にもわからんわいと思われた。

普通、こういう時は「わかりましぇ〜ん」で良いのである。その話の内容が非常によくわかっている人ならスッと聞いてわかるかも知れない。しかし、いわゆる一般の人にはわからないであろう。っつーか、あの雑音じゃ何もわからんって。英語話者が英語のビデオを見てもわからないものを、日本語話者が日本語版を見た時にはわかるなんてのは、翻訳者のやり過ぎとも言える。まぁ、できないものはできない、本物のプロならこれでよろしいのである。

そうと決まれば話は早い。あとは遊びだ。本物のプロにこだわることもない。というわけで、まずは、その医者が着ている白衣に記された病院名とその医者の名前らしきものからその医者の所属とフルネームを突き止める。インターネット検索とは恐ろしいねぇ。電子メールのアドレスもわかったので本人に聞こうかとも思ったが、何しろ時間がない。っつーか、もうこっちは遊びモードなんだし。まぁとりあえずその医者の専門分野らしきものを確認しておく(すると言葉遣いがある程度絞り込める)。

それからまたビデオを見る。今度はその医者の口をにらみながらコマ送りである。口が開いて、舌が上方に向かって動いて、唇がやや突き出されて…という動きを何度も何度も見る。同様の言語学的訓練を受けた人ならおわかりであろうが、これでかなり「出ているはずの音」が絞り込める。

それからその前後の語句を検索しまくって、それっぽい音の語句を探すのである。長い時間をかけた揚げ句、問題の箇所が hyaluronic acid という二語であることが判明した時にはずいぶん疲れてましたよ、ホンマ。まぁ、こんなアホなことしなくても良いんだけどね。

あれあれ何の話だっけ。あぁそうだ。それでもLくんに払うものは払わないといけないのだ。あぁ借金とその哀しさ。

ここまで考えると、重く暗い考えが頭をかすめる。今回は、たまたまこうして借金相手の顔を見たから思い出したのではないか。この調子で知らないうちにどこかで借金をしているのではないか。そして忘れているのではないか。どどど。どきどき。

こうなると、これを読んでいる人は、この弱みにつけ込んで「おーい、あのお金のこと、忘れてないよね」という言葉を投げ掛けてやろうと思うことであろう。わははは。その手には乗らんぞ。もう超越モードに入っちゃうもんね。お互い、この地上に生きとし生けるものではないですか。一瞬の生を共有しているに過ぎないのですよ。

わははは。この生命、この世界、いわばすべて借り物。そうしてまた我々はどこかへ帰っていくのですよ。わはははは。生きているとは不思議なことですな。わはははは。では失礼。

2008年3月23日日曜日

言葉もない

今さら文部科学省のやることに驚いても仕方ないとは思う。人類の歴史を通じ、為政者側は常にかなりのアホなのである。っつーか、人間が増えて組織ができちゃうようになると、物もわからず現場も知らない連中が「上」に行きやすい。能力のあるヤツは現場でやって何とか食っている。その税金を吸い上げて無能な為政者は食っている。まぁ一種の手の込んだ福祉システムですわな。

しかし、我々としては、高見の見物を決め込んでいるわけにもいかない。何しろ無茶苦茶が行われるんだから、少なくとも自衛策を考えておく必要はある。

というわけで、新しい学習指導要領とやらを見ても、驚かず冷静に判断して自分のできることをするしかない…んだけど、あまりにもひどくてねぇ。やっぱし笑ってしまったぞ。(以下は「言語活動に関する学習指導要領改訂案の記述例(抜粋)」より)


小学校5・6年の「外国語活動」。決して冷 笑的になるつもりはないよ。でもね、これはどう見てもあらゆるレベルで何も考えていない、言語について大きな思い間違いをした、現実離れしたお役所のキレイ事作文以外の何ものでもないですよ。これがあってもなくても人間の言語習得の事実は変わらないし、先生の質も上がらない。こんなものを書いているヤツが給料もらって公務員してますということですな。

これに縛られる教育委員会・各学校も気の毒だが、現場の先生方もかわいそう。もちろん最大の被害者は子供である。というわけで、我々は大規模な児童虐待を目にしているのだ。少なくとも自衛策を考える必要はあるでしょ。

中学校の指導要領もかなりのもんです:

これを何も知らないガキの作文といわずして何といいましょうか。それでいて、「行わせる」といった言い回しに絶望的な思い上がりというか、支配する人民を見下した態度というかが丸見えになっている。いつものことではあるけれど。

やれやれ、これが文部科学省の「指導要領」かぁ。まぁ、がんばって従いますか。みんなで手始めに「生活指導要領」とかいう作文でもしましょうか。「日々の暮らしを通じて地元社会に明るさをもたらし、世界平和に貢献するとともに、宇宙創造のメカニズムを解明する。芸術に親しみ、また自分でも芸術的創造を行う。身体的・精神的な欠陥によりこれが困難なものに対しては適切な指導を行い、できるだけのことを行わせる。また…」

2008年3月20日木曜日

相容れぬ二言語間にある身は…実は存在しないのか

入院直前には翻訳をやっていたように思う。入院直後、やっぱり翻訳である。まぁねぇ。思わぬ入院費用がかかりましたからねぇ。ここは一番、少々無理してでもお仕事は引き受けてねぇ。少しでもねぇ。生活の足しに。あぁ働けど働けど充分な飲み代にならず…(っつーか、「充分な飲み代」があると危険なのかも知れんが)。

まぁ、まだ舌も痛いし、黙ってコチコチと翻訳なんかやるのには良いのかも知れぬ。というわけで、チョロチョロと仕事をする。

入院前にやったのは、英語ビデオ(アメリカ英語!いやあぁ)の英語原稿を書き出し、日本語にするという仕事。スーパー医学系で苦労した。昨日終えたのは、某企業ビデオの日本語台本を英語にするという仕事。日本企業節全開で苦労した。今やってるのは、某お役所関係らしいビデオの日本語台本を英語にするという仕事。お役所的中身ナシ言語満開なので苦労する。なんか、ややこしいでしょ。自分でも全然把握できてましぇん。ゔぅわはは。わからん。わからん。

こんなことばかりやってると発狂するから、ボケッと本を読んだり酒を飲んだりボチボチ講釈師業の準備をしたりする。すると我に返ってフッと思う。

つくづく日本語と英語って違う。絶望的に違う。どうしようもなく異なる。よくまぁ翻訳とか通訳とかできるもんだねぇ…っつーか、無理よ、絶対。え。そんなことやる人いるの。詐欺師だよ、そんなの。

とか思いつつ、またお役所的な日本語に戻る。何とかしてよ、これ。一般的に、日本語→英語で苦労するのは「英語的論理の欠如」である。もちろん、別に日本語が悪いわけではないよ。むしろ、英語が狭量かつタカビーなの。

つまり、特にここ200年ぐらい、日本語は狂ったように英語を翻訳して受け入れているから「英語みたいな言い方の日本語」に慣れちゃってるわけです。だから一般に英語→日本語の翻訳はなんとなく誤魔化してやれちゃうというか、「英語ではこういうんだから受け入れなさい」みたいな押しつけがましい日本語がまかり通りやすい。(これは哀しいことですよ。同業者の皆さん、日本語らしい日本語でやりましょうね。)

ところが英語の方は400年ぐらい前にだいたい出来上がっちゃって、その後は英語を人に押し付けるだけである。したがって、(とりあえず個人個人の性格とは無関係に)それなりに頭も固く、態度もでかくなっている。「日本語みたいな英語」を受け入れる態勢にはない。

というわけで、話は戻りまして、一般的に、日本語→英語の方が「やりにくい」のである。んで、特にやりにくいのは、英語的論理のないヤツなのね。要するに、企業・役所関係のオッサン語ですわな。苦労しますよ。

例えば、「大阪は、昔から水の都として知られております。この大阪を守って子供やお年寄りに優しい街にしていくためには…」みたいなの、よくありますでしょ。これをそのまま英語で言ったら、何だかわかんなくなる。「水の都」と「優しい」を何となくつなげるか、あるいは「水の都」を目立たなくさせて論理から追い出すか、…まぁ何とかする必要が生じる。

言ってるオッサンは、たぶん、水の都→キレイな環境→だから弱者にも優しい→でも最近は公害等で大阪も汚れたかも→弱者に優しいキレイな大阪を守れ→…と思ってるオレってエライでしょ、どう?… みたいな意味が頭の中をぐるぐる回っている。しかし、これを明確に論理化・言語化せず、この本音のあちこちをカスりながら言葉にする。結果、先程のような日本語が出てくるという仕掛けである。早い話、相手に物事を伝えるための明快な言葉にはならない。むしろ、「明快な言葉をあなたにぶつけるような私じゃないから受け入れてね」というのが、日本の人付き合いにおける重要なメッセージなのだ。

もちろん英語だってそんなオッサン語をやろうと思えばいくらでもできる。ただ、例えば外部向けのビデオの台本を書く時には普通やらないのである。でも日本のオッサンはドンドンやりますな。ここで絶望的なズレが生じる。

そういう時、どうやって翻訳するかというと…それぞれの場合に応じてテキトーに決めるしかないのね。翻訳に一般論はない。個々の場合に応じて個々の言葉をいじるしかない。文の順番を変えてお茶を濁したり、勝手に論理を読み取って言葉を補ったり、無論理なまま放っておいたり、様々な処置が存在する。けど、いつ何をするかについての一般基準なんて不可能ですよ。そもそも、不可能にして無理なことやってるんですから。

とは言え、こうやって愚痴りつつ考えてみると、いつの間にやらこういう「やりにくそう」な仕事ばかり選んでもらってるような気もするなぁ。確かに、ある意味、どんな言語学の論文を読むより面白いという側面はあります。それでお代が頂けるんだからありがたい話でして。

あぁお代か。はぁ。この度は思わぬ入院費用もかかりましてねぇ。苦労しますんですよ。誰か金くれんか。見事に飲んでみせるから。

2008年3月14日金曜日

沈黙の春

…という本がありましたな。もともとは英語の本で、内容の趣旨からすると原題の Silent Spring は「鳥の声が聞こえない春」、要は「人間が化学物質をまき散らすので自然が破壊されるよ」ということですな。

とか言いつつ、ちょっと調べてみたら、何でも最初の日本語訳は「生と死の妙薬」という題だったとか。へえぇ。何だかわかりにくい題名だとは思うが、何しろ60年代だからねぇ。

それが直訳調の「沈黙の春」になったわけか。お決まりのパターンですな。すると次は「サイレント・スプリング」と来ますわな。それから、「クワイエット・フォレスト」とか何とか、勘違いカタカナになっていきますわな。あぁ。なんだか、寂しいねぇ。

あれれ、こんな話をするつもりじゃなかった。目下沈黙中と言いたかったのである。文字通り、声を出さずに沈黙中。これ、結構難しいよ。玄関に郵便屋さんなんか来ちゃったら、反射的に「ハイハイ」とか言いそうになるからね。

先月のこと、講釈師業が休みになったので、大喜びで気になっていたことを片づけ始めた。まずは作りかけていたジョーク曲をいくつか仕上げる。それからアダム君が作った曲に生ドラムをかぶせて遊ぶ(2回も安スタジオ借りて録音したど)。

続いて気になるのは読まずに積んであった言語学関係の雑誌なので、これを読む。するとこの方面の「読まずにおいてあった本」が気になり出して読み始める。面白いのでついつい時間が経ってしまう。っつーか、アッという間に1週間近く経つ。
しかし、そうもゆっくりしてられない。喉の不調は相変わらずで、まともな声が出ない。これじゃ講釈師業が再開できない。別に再開したいとは思ってないんだけど、そうすると食うに困るし飲むに困る。こりゃ困る。

というわけで、この際専門家に任せ、喉に存在するわけのわからんモノを切り取ってもらうことにした。これを普通の日本語で表現すると、「喉の手術のために入院した」とかいう具合になる。何という大げさな。ということで、あまり騒がず、黙〜って済ませようと考えた。

ところがねぇ。こういう時に限って仕事が来るのね。やっぱ、マーフィーの法則ってスゴイわ。というわけで、すさまじい医学用語が飛び出すビデオの翻訳をバタバタと済ませ(苦労したよ)、入院前日の晩に原稿を送る。やれやれ。

病棟とは不思議な場所である。職業等々の社会的な意味を脱ぎ去り、身体としてコロコロと横たわっている。回復しつつある人も死につつある人もいる。どっちでも良いのだ。何だか気楽だな。

というわけで病人の仲間入りをし、全身麻酔という強力なヤクでぶっ飛んだり、点滴ばかりなのでマトモな飲食を夢見たりしながら3日半を過ごし、退院となる。(←写真:病院の寝台にて妄想を描く)

しかし、そう簡単にニコニコ社会復帰というわけにはいかない。声帯の保護のため1週間は発声禁止とのことである。

オマケに手術の際に口に突っ込んで頂いたパイプのおかげで(これがないとできないんだから仕方ないんだけどね)舌の左半分にかなりの損傷を受けた。まぁ、舌の裏表に一つずつ巨大な口内炎があって全体が腫れ上がっていると思って頂ければよろしい(よかないか)。これじゃ、声が出せても喋れんわいな。

というわけで、目下、冷ました雑炊をすすったりしつつ、黙っているのである。これを沈黙の春と言わずして何と言うか。

2008年2月8日金曜日

狂気のアルコール消毒

図書館で借りてきた徳南晴一郎『人間時計・猫の喪服』という古いマンガ(1962年)を読む。あまりのことに驚く。呼吸が変になる。落ち着いて、もう一度しっかり読む。これがいけなかったらしい。気分の底から変になる。

これは恐るべき作品である。たかがマンガと思うなかれ。マンガ版『ドグラ・マグラ』というべきか(←夢野久作を知らなかったらすみません)。絵の「響紋」というべきか(←三善晃を知らなかったらフクスケ(←あ、「ビックリハウス」知らなかったらすみません…これじゃキリがないぞ))。まぁそのつまり、ついこうして内輪ネタに逃げ込みたくなるほど圧倒的な説得力で迫り、こちらを逃がしてくれない狂気なんですな。怖い。コワイ。

このマンガはもっと読まれても良いのではなかろうか。その助けとして、ということであれば、その何ページかを紹介しても構うまい。一種の学術引用である。加えて、著者は「自分の昔の作品は、好き勝手にしてくれ」と仰っているそうである。ますます構うまい。というわけで、 ハイどうぞ

あぁこの奇妙に歪んだデッサン。つながらない物語。あるようでないようでやっぱりない脈絡。それが200ページ余にわたって続く。それをしっかり読んでいくと…そりゃ着実にやられてしまいますよ。お互い、気をつけましょう。っつーか、そのまま仕事のあと「ちょっとビールを」飲みに行って、気がつくと朝5時半だった。何だか見知らぬバーでドラムを叩いていた。ああぁ。お互い、気をつけましょう。

これでやめておけば良いのに、この作者の自伝まで読んでしまった。すなわち徳南晴一郎『孤客:哭壁者の自伝』である。これまた何と奇妙な本であろうか。

冒頭は「うとうととして微睡から目覚めると矢張階下で犬がしきりに泣いている」と始まる。犬が「泣く」のが何だかスゴイ。かと思うと「新制高等学校が発足して今度もその第一期生として進学した」というような普通の調子になる。その混ざり方がいかにも奇妙なのだが、リズムに乗ると不思議に読みやすい。スルスルと読んでいく。と、最後にこうくる:

「…この上……いたずらに……ぜ…贅言………を……費やすは…………滋息…………蕃衍に……す…ぎ……る……に……よって…………(昏昏として眠らんとす)…………みょーねん……お話し………………の……つ……づ……き……をもって…尊台………の……ご一読………を………わ……ず……ら……わ………さ………ん………と………ぞ……ん………じ…そう……ろ………う………………」

こういうものを読み終わったらどういう気分になるか、それはもう実際にやって頂くしかないのであるが、それを推奨するかと言われると、そりゃもう知りまっしぇんとしか言い様がない。ちなみにこの本には著者の住所が思いっきり出てくる。え。大阪の。あそこかいな。うわわぁ。というわけで、ますます妙な気分になる。

重なる時には重なるものである。そのまま「ムンク展」に行った。ムンクの作品108点がズラズラと一堂に会する、なかなかの規模の展覧会である。ムンクはやはりムンクであり、それが一度に集まるのだから、こりゃ何かですよ。

ムンクというと「叫び」その他の代表作を思い浮かべるけれど、ムンクご本人は自分の書いた絵を自分のアトリエにたくさん並べ、また並べ替え、また並べ替え、を繰り返していたそうである。つまり、いくつも並べて眺めて生じる世界、個々の絵の足し算以上になる何かが生まれる世界、これをやっていたらしい。

それをどう思うかはさておき、確かにこれだけの数の作品が並ぶと、その試みの一端をモロに体感することになる。圧倒的な説得力で迫り、こちらを逃がしてくれない狂気。あのねぇ、こりゃマズイですよ。お互い、気をつけましょう。っつーか、そのまま飲みに行って、フッと自宅で目覚めると午前3時過ぎだった。ああぁ。重なる時には重なるものである。

人間時計+奇妙な自伝+ムンクの三段攻撃。ああぁ。ますますおかしくなる。喉の調子も悪くなる。ますます声がかすれて出なくなる。

…と、朝になって激しく咳き込み、ドキッとするほど出血する。すっかり喉が軽くなる。おおぉ。何じゃこりゃ。医者に行くと、「あぁずいぶん良くなりましたね」と言われる。それで良いんだろうか。きっと良いのだろう。これはきっと人間時計とムンクの効果であろう。そしてまたディオニュッソスの祝福であろう。

そうと決まれば、そんな祝福を途切れさせてはならない。というわけで、ジンとウォッカを用意する。もちろん、カクテルとかいう甘い飲料を作る趣味はない。こういうのは、きちんとコップに注いでそのまま頂くのが礼儀である。うむうむ。

するとさらに喉の経過はよろしいのである。ははぁ、なるほどね。狂気の世界に歩み入りながらアルコール消毒、これが百薬の長か。昔から何となくそうじゃないかとは思っていたのだ。ううむ、やっぱり。

2008年2月3日日曜日

毎日飲んで食うのである

ひところ話題になったネタであるが、こういうのは古くならないでしょ。
ものを食べる人なら、是非とも一度は見ておきたい映画でありましょう…



以下、この映画より:





2008年2月1日金曜日

患者の心得を体得する

あーあー。んんごほん。えー、どうも。声が出ませんでな。不自由しておりますよ。まぁ、これを読んでおられる方にはまずバレないだろうから黙っていても良いんですけど。何しろ「喋ってナンボ」の講釈師業としては、やはり不自由でしてな。ホンマ、困っておりますですよ。

実はですね、年末年始の休みが終わって講釈師業が再開してみると、どうも喉の調子が良くない。「やっぱし、空気が悪いんだよね。やだねぇ」と思いながら、やたら咳払いして誤魔化していたら、アッという間に声がかすれ始め、ほとんど使い物にならない状態に至ってあららんらん。懸命にうがいをしてエイヤッと喉を洗うと出血したりする。血を吐いてまで喋る講釈師ということで日本風浪花節に成り立たせる趣味はない。

普段は痛くも何ともないが、フッと喋ろうと思うと声がかすれて出ない。先日も同僚に「おはよう」と言おうとしたが、息がシャーシャーと出るばかりで何の音も出なかった。こりゃ不便だわい。

それでも業務は業務であるから何とか誤魔化していた。喉の奥から声を出すようにすれば何とか出る。幸い、大学業務は休暇に向けて減りつつある。ありがたや。とは言え、いつまでも放っておくわけにもいくまい。と考えて、近所の耳鼻咽喉科に行くことにする。

医者なんて、何年ぶりであろうか。国民の義務として保険料はバンバン払っているが、およそ医者に行かない。ご存知ですか。こういう人には、保険金還元ということでしょうか、賞状だの景品だのをくれるんですよ。わけのわからん保険制度ですな。ここにある中華鍋も安楽椅子も、すべて「健康優良家庭」に送られた景品でしてな。

やれやれ、とうとう医者に行くことになったか。あぁ。今年は景品なしかぁ。そんなつまらぬ小さな失望を抱えながら病院に到着する。間違えて隣の喫茶店に入りかけたり、靴の脱ぎ方や保険証の出し方がわからなかったりして笑われたが、これは単に医者に不慣れであるためである。

やがて「ヒグチさんどうぞ〜」と妙にニコニコ呼ばれる。他に客もいないのに大層なことだと思いつつ診察室に入る。医者はこちらの話をハァハァと聞き、「じゃぁ、こちらの機械でちょっと見てみますか。このモニターで見て頂けますし」とおっしゃる。

そんなに面白そうな機械で自分の喉が見られるなんて、夢のような話ではないか。「ええもう。ぜひ。やりましょう。みせてください」と4つ返事で同意する。我ながらすごくノリの良い返事だと思うのだが、医者はちょっと苦笑して首をかしげておられた。ううむ。もう少し病院に慣れる必要があるな。

さらに話を聞くと、鼻から光ファイバーの管を入れるのだという。え。ちょっと待ってください。そういう話だとは思わなかったんですけど。あの。もし。と言う間もなくスルスルグイと鼻から管を入れられる。あうあうあうあうあうぅ。

と苦しみながら、眼はモニターを凝視する。こりゃ面白い。鼻腔の奥をずーっと通って喉を越え、声帯に至る…と、声帯の上にかぶさるようにプクッと赤くて丸いものができているではないか。あいつが犯人か。医者は「あぁ、見えますか。これですね」とか言いながらカチカチと画像を記録している。

忌々しい光ファイバー管を抜き、一息ついたところで、医者は説明してくれる。まぁ多分ポリープか血腫でしょう。そっと様子を見ますか。お休みに入るんならちょうど良かったですね。ちょっと間を置いて、また来てください。来週にしますか。では薬を処方しておきましょう。

…という典型的なお医者トークをおとなしく聞くのに不慣れなので、こちらはトンチンカンなことをたくさん言う。へえぇ、それはどういうものですか。ははぁ、面白い。じゃぁ手や腕にできても理屈は同じということに。やっぱし年末に派手に飲んでカラオケで喚いたのが良くなかったですかな。いや、特に無茶だったとは思えませんが。あ、自分でそう思ってもダメですか。ははぁ。

やがて平和に病院を出る。自分の脱いだ靴とそっくりな靴が置いてあるのでひと騒ぎし、また笑われる。何しろ病院に慣れていないのだから仕方がない。もうわかりましたって。(1)病院に行く時には、近接の喫茶店と間違えないようにする;(2)他人が履きそうにない履物を履いていく。

その後立ち寄った薬屋でも似たような不慣れな会話を執り行い、薬を手に入れる。こんな薬を飲むなんてのも、何年ぶりであろうか。あぁ。薬〜、くすり〜、クスリ〜。(←これは「ザ・ナンバーワンバンド」を知らないとわからないかも知れませんが、まぁ気になさらず。)

では、これから今季最後の講釈師業に行って参ります。やぁれやれ。声、もつかなぁ。

ま、あとは患者の義務として、アルコール消毒をしっかりやれば良いのでありますな。そりゃもう、わかりますとも。だんだん、慣れてきましたからな。実は、早速仕事帰りに実践する予定になっております。仕方ないですよ。喉のためですからな。ではごきげんよう。

2008年1月23日水曜日

長年の疑問は共有されている

「どうして導線はからむのか」について、追加。やっぱしみんな気になるらしく、新聞記事があり、その元ネタの論文がある。

やっぱし、いるのねぇ。こりゃ楽しい。

正月進行中も音にハマる

正月である。何事にも熱しやすく冷めやすく飽きっぽい人々は、正月を三が日〜1週間ほどで終わらせ、サッサと「ハイ次〜」と頭を切り替えてしまうようであるが、そんなことではいけない。定義上、正月とは1月であり、1月とは正月なのだ。慌てるでない。焦るでない。まだまだ正月なのだ。先は長いのだ。ここで気を緩めてはいけない。総員、配置につけ! 酒庫確認!

何しろ正月だから、気になっていた音楽をチェックしたりもできるのだ。インターネットの魔法によって Porcupine Tree の全アルバムを入手して聴き始める。やっぱし面白いねぇ、この連中。

また、ピンク・フロイドの 'the final cut' デジタル・リマスター盤が出ていることを発見する。おぉ何と1曲増えているではないか。しかも。あの曲が。

このアルバムは、ロジャー・ウォーターズという男の、戦死した父親に捧げる鎮魂歌である。したがって「1曲増えた」といっても、再発売に当たってファンの皆様のためにボーナス曲をつけました、というノリにはなってくれない。そういう種類の音楽もあって良いではないか。そんなのばっかり聴いても良いではないか。

増えたのは 'the tigers broke free' という曲で、問題の父親が戦死した経緯が率直かつ効果的に歌われている。正直なところ、聴く方もいささかツライ曲である。映画 'The Wall' で使われただけの幻の曲であったが、その後ピンク・フロイドのベスト盤 'Echoes' に収録された…が、何だか場違いだった。誰が聞いてもこの曲の居場所は 'the final cut' なんだから。

…あぁつい興奮してファンの戯言みたいになってしまった。まぁそういうわけで、ですね、この曲があるべき場所に収まったのを見て、これは聴かぬわけにはいかないと思って入手したわけです。んで、何度も聴いてしまう(何しろ17歳だったか18歳だったかのヒグチはこれで初めて英語という言語を覚えたのだ)。音に浸りながらボーッと歩いてしまう。

すると、どうなるか。実際には聞いていない時、例えばシャワーを浴びている時でも頭の中で音が再生されるのである。あるいはまた、フッと立ち上がった拍子に耳の奥でギターソロが始まる。はたまた、何となく気がつくと頭の中で歌が進行している。こりゃイカン。助けて。

などと遊んでいたらまだ講釈師業に出かけないといけないし明後日締切の書類はあるしその他締切の書類はもっとあるし臨時の翻訳作業はあるしおやおやどういうわけだこれは。

よぉし、仕事にかかるか。そう思って机に向かうと頭の中では 'the final cut" の一節が鳴っている。助けて。

2008年1月16日水曜日

長年の疑問に対する正答が得られて不満足

ハイ、こちら近鉄電車の中です。ポッド放送で 'The Naked Scientists' を聴いております。いつもの通り様々な話題が扱われておりますな。

道路脇など空気の悪いところに住む人々は、キレイな空気の中に住んでいる人々に比べると、知能指数が3ポイントほど低くなるそうです。ひえぇ。

タバコは子供の脳の構造を変えてしまい、結果として集中する能力が低下することが脳スキャンによって明らかになったそうです。へえぇ。

人が薬物その他に依存してしまう際に生じる脳の変化には、学習や記憶によって生じる変化と似た部分があるそうです。なるほどねぇ。とは言え、もちろん、学習の際に生じるシナプスの変化は、依存の際に生じる破壊的な変化とは違うのだそうです。ははぁ。この後半がなければ、良い言い訳になったのにな。でも確かに「もっと知りたい」気持ちは麻薬的だな。

…というのはどうでも良いのだ。このエピソードで楽しみにしている話題はただひとつ、「どうしてイヤフォンなんかの導線はポケットに入れておくと絡まってしまうのですか?」という質問に対する「お答え」である。あぁ早く。早く教えてくれ。

…というわけで、ケンブリッジの先生が登場して答えてくれました。いわく、導線でも何でも、ポケットに入れて揺さぶれば、(物理的に可能な範囲内で)どんな状態になる可能性もある。数々ある状態のうち、我々が「乱れている・絡んでいる」と判断する状態の方が「きちんと整っている」と判断する状態よりもはるかに数が多い。したがって、我々としては、「ポケットに入れておくと絡んでしまうことが圧倒的に多い」という経験をすることになる…。

ああぁ。そりゃ、そうでしょう。毎度ながら、「正しい答」というのは何とつまらないのであろうか。

正しい答による正しい失望は終わった。しかし人類の同胞たちがこの話題をこれで放っておくわけがない。「正しい答」に続いて「こうやれば絡まないよ」というような声が次々に寄せられる。おおおぉ。やはり。皆さんも。思ってましたか。例えばこんな助言なんかがあります。
http://lifehacker.com/software/life-hacks/keep-headphone-wires-from-getting-tangled-152499.php

ちなみにヒグチの場合、「導線が動かなければ絡まない」という理屈に従って、ヘッドホンその他の導線類はゆるく巻いた上で柔らかい小型ケースに入れて運搬している。「巻く」「入れる」という手間がかかるわけだが、激しく絡むことを考えれば仕方ない。まぁ、この度さらに効果的な巻き方がわかったので、早速やってみるか…って面倒だなぁ。

やれやれ。どうして、導線って、絡むんだろうねぇ。ちゃんとキレイに畳んで、そーっとしまっておいても絡むんだよねぇ。どうしてだろ…

これは…多くの人の物欲をそそりそうな…

2008年1月15日火曜日

「淀川ぞめき」グーグル

ブログ(blog)のもとの形であるウェブログ(weblog)というやつ、最近めっきり見かけなくなった。っつーか、あっても見ないかもね。そりゃ、そうだわな。検索サイトもできたし、情報源としての各種サイトは常に存在するし、何といっても皆さん常時接続でゆっくり見るようになった。早い話、もうウェブログなんぞ要らなくなったのだ。

しかしウェブログを記すための道具だけは進化し続ける。でもウェブログは要らない。いつしかウェブログはブログとなり、特定の話題について有用な話題を提供し続ける媒体となった…のなら良いけど、そんな奇特な人は少ないですからなぁ。むしろ、日記みたいな駄文みたいなものを書く人が増える。

そんなこともあって、徒然なるままに駄文を書き連ねるようなわけのわからない日記的サイトがブログと呼ばれるに至った。おぉ。んじゃ、ピッタリではないか。「淀川ぞめき」としてダラダラ書いてたやつをこの際グーグルに任せても良いんじゃなかろうか。と思いついたのでこうしてみた。こういう時は時流に逆らわないのである。