2008年6月4日水曜日

終わっても終わらなくても終わる…のか?

目下多忙と寝不足でヘロヘロでも、田川建三さんの新約聖書概論という講座には欠かさず出かける。通い始めて何年にもなるなぁ。ひょっとしたら十年ぐらいか。げげげ。時の経つのは早いものだ。

いわゆる共観福音書の話から始まったその講座も、その最終段階、すなわち「ヨハネ黙示録」の話に突入した。これは新約聖書と呼ばれる文書集の中で最後に位置する文書であり、したがってホントに最後の最後なのだ。ううむ、ついに終わるのかぁ。ある種、感無量である。

この講座を聞く前は、聖書やキリスト教について何にも知らなかった。んで、今はどうなったかというと、やっぱり何にも知らないようである。それでも「こんなに何にもわからないのかぁ。そりゃまぁ、そうだわなぁ」ということが少しわかり始めたような気はする。ような気がする。とすれば、それはそれでそれなりに大したもんだとも言えるかも知れない。と思うことにする。(なお、それほど多くを教えてくれた人をつかまえて安っぽい同僚みたいにセンセイ呼ばわりする気にはなれないのが我が商売の呪われたところであり、だから田川さんは尊敬をこめて田川さんなのである。)

およそ新約聖書に収録されている文書はわけのわからないものが多い(2000年も前に書かれたものを読んでおいそれと話が通じる方がどうかしている)。その中でもヨハネ黙示録は極め付きに奇怪な物語である(だから愚劣極まる解釈・解説の類も多い)。ある時、こういうのは静かに座って読んでもダメだと思い、部屋の中を歩き回りながら始めから最後まで一気に大声で読んだことがある。それは確か New King James 版という最善とは言えない英訳であったが、それでもなんだか限りなく渦を巻くドロドロが感じられた。「ヨハネ黙示録はドロドロ渦巻き」というのが唯一手応えのある理解であった。

『キリスト教思想への招待』を読んだのはそれから十年以上も経ってからである。この本には問題のドロドロ事情の一部が書いてある。というか、この本の最終章は丸々ヨハネ黙示録の話なのだ。その章では、この文書がいかに「そう簡単に終わらせるわけにはいかない終わりの物語」であるかが解説されている(そもそも日本語で書かれたヨハネ黙示録のマトモな解説は珍しい)。それからさらに数年経った今、これを書いた本人からこのドロドロ話がさらに詳しく聞けるのだから、面白くないわけがない。

そう簡単に終わらせるわけにはいかない物語についての話であるから、そう簡単には終わらないであろう。すなわち「新約聖書概論」講座自体、そう簡単には終わらないことになる。実際、そう簡単に終わりそうにない。新約聖書という文書の話が、そしてキリスト教という極めて奇妙にして巨大な現象の話が、そう簡単に終わるわけにはいかないのだから。

それにしても月日の経つのは早い。この種の話に首を突っ込んで何年になるのであろうか。もっとも、対象が何であれ、首を突っ込んでじっくり時間をかけて身体化するというのが我が流儀であるから、少々時間がかかるのは仕方ない。それでも生命時間には限界があるから、どんなに終わっていなくても終わりとせざるを得ない時が来る。

試験なんかでも、終了時刻になれば、終わってても終わってなくても「終わり」である。職場でも、目の前の仕事が終わってても終わってなくても終業時刻が来れば「終わり」、これが世界の常識である。要するに、生きているとは、そういうことなのだ。ダラダラ残業など、自然の摂理に反する行為である。でしょでしょでしょ。

しかしまた、そう簡単に終わらせるわけにはいかない。生きているとは、そういうことなのだ。終わる時にはアッサリ終わるに決まっているのだが、そう簡単に終わらせるわけにはいかない。これを腹の底からの実感として理解した時に限りないドロドロが生まれるのかも知れない。

そのドロドロに終わりはあるのか。これを考えないとこの話は終わらないのだが、まぁ、またの機会にしますか。今回はこれで終わり。

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