2008年9月19日金曜日

「いち抜けた」の勧め

この国の際立った特徴に「痛み分け」がある。具体的には、シンドイことやイヤな気分をみんなで共有することで和を保つという方法である。

長い歴史の中で発生し培われてきたものであろうから、馬鹿馬鹿しいと一蹴するつもりはない。しかしまぁ、見れば見るほど「悪いけど、いち抜〜けた♪」と一声発して身を引きたくなるし、事実そうさせていただいている。とゆーか、みんなでそうすりゃ良いんじゃないの。そしたら誰も痛がらずに済むでしょ。

見よ、近所の小学校では今日も運動会の練習に余念がない。当日に事故が発生しないよう競技の練習を通じて体の動かし方を指導するのかと思ったら、さにあらず。ただただ愚かしくやかましい音楽に合わせて行進したりグルグル回ったりするのみである。そして、「○○組の勝ちぃ!」という指導者の声に続けて「やったぁ!」と唱和する練習、これを繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し行うのである。もちろんその指導者は、ひたすらヒステリックに喚きまくるだけの女教師である。

早い話、専制国家におけるマスゲームの練習である。誰も本質的な動機を体感していない。誰も楽しんでいない。盲目的な愚かしさに引っ張られ、体の動かし方も頭の使い方もわからぬまま、みんなでイヤな気持ちをわけあっている図である。これを6年間お続けになった後、見事に役に立たない12〜13歳人口がポコポコ流出する仕組みである。

(人間が集まってこの種の全体主義的行動を取るようになる、それは指導者の知性が低く、教育レベルも下がったときである。学校でも会社でも宗教団体でも国家でもその例は見られるが、まぁ今の世の中なら「アメリカ」と一言申し上げれば一発で通じるであろうか。)

もちろん、その人口を吸い込む中学校でも高校でも同様である。誰も本質を体感せず、誰も楽しまない環境で、納得できない全体主義が進行する。その暴力から一瞬身をかわした一時を「楽しい思い出」と称して胸に記録することもあろうが、それはアウシュビッツ収容所における美談の類である。とりあえず巨大な不快が前提となっており、それを皆で我慢する。

ちなみに、こういう学校で否を唱えてグレたりする人間は、○○スクールというような「厳しく鍛えてくれるところ」に収容される可能性が高い。つまり、「おまえだけ不快から逃げるとは何事だ」というわけで、強制的に不快が割り当てられるわけである。もちろん、○○スクールに送り込む側の大人たちも不快な顔をしている。

そして大学でも企業でも同様…となれば悲惨であるが、実はそうでもない。さすがに人間ここらでアホらしくなるのであろうか、それともずっとアホらしさに気付いていた人間たちが大人になってちょっとずつ自分で行動できるようになるのであろうか。当然存在するはずの「みんなが楽しい」という選択肢を求め始める人々がハッキリ区別できるようになる。

しかし、いうまでもなく、「みんなが楽しい」ためにはボーッとしていてもダメで、みんながそれなりに働かねばならない。ところが、これは「みんな」がそう思わないと実現しない。一部の人がキチンと働くと、そこに皺寄せが行き、その人たちを押しつぶしてしまう。ありますでしょ、そういう職場。

そういう事情で、楽しく生きたい人がいても、それが「みんな」でない限り、なかなか難しいのですな。盲目的な愚かしさの力は暴力的に強い。

だからこそ、みんなで「いち抜けた」すればよろしいのであります。みんな抜ける。みんなグレる。

心ある人だけが抜けてもダメである。そうじゃない人だけが残るもん。目下の日本を見よ。首相という地位は誰がやっても不快、こんな国が楽しいはずがないではないか。

特に職場・団体なんかで「おまえなんかより大きな、大事なものが優先なんだ」という空気がドーンと存在している場所があれば、真っ先に抜ける。人間が集まっているんなら、一人一人の人間より優先されるものなんぞ、あるはずがないじゃないの。一人一人が不快なら、そこに幸福は存在しない。

みんなで抜ければ良いのである。そうすれば「一人一人の人間より大きくて大事なものがある」「そのために不快を耐える」といった幻想が消える。後に残るのはうまい酒とか、まぁそういうことになりますわな。別に能天気な発想ではない。現に、お金を追い回し安いものを追い回した揚げ句、有害な食品が流通しているし、お金を追い回し安いものを追い回して米国経済は破綻しているではないか。盲目的な愚かしさの力は暴力的に強いのだ。愚かしい「痛み分け」に付き合うと危険である。「いち抜けた」して縁を切るのが一番なのであります。

0 件のコメント:

自己紹介

自分の写真
日本生まれ、日本育ち…だが、オーストラリアのクイーンズランド大学で修行してMA(言語学・英文法専攻;ハドルストンに師事)。 日本に戻ってから、英会話産業の社員になったり、翻訳・通訳をやったり、大学の英語講師をしたりしつつ、「世の中から降りた楽しい人生」を実践中、のはずです。