2008年11月26日水曜日

二極分化する軍国日本なのか

(以下の文章、きっと意外な結論にたどり着きますから、まぁ最後まで読んでね。)

錯視という現象がある。パッと2本の線を見て「こちらの線の方が長いに決まってる」と直感的に判断しちゃうけど実は同じ長さだったとか、あの類である。(楽しみたい方は「錯視」で画像検索でもしてください。)

確率についても同様の錯覚が起こる。硬貨を投げて裏が出るか表が出るかは基本的に五分五分の確率である。ところが表が5回ぐらい続けて出ると「もうそろそろ裏が出ないとオカシイ」と思い始めてしまうという、あれである。もちろん硬貨にしてみればさっき表だったか裏だったか覚えておらず、毎回毎回五分五分の確率なのだが、人間というヤツ、どうしても自分の思惑で世界を見てしまう。

ネズミもそうである。かつては「地下の食料倉庫にジャガイモの袋を置いておくとネズミが湧いて出る」と信じられていた。それはもう、経験と実感に裏付けられた理論であった。「他に可能性はない」と思っていたのである。

しつこいようだが、もう一つ。つい百年ちょっと前の日本で脚気が流行した。当時の軍隊で次々に死者が出る。ところが監獄の囚人は元気である。両者の違いは「麦飯を食べるかどうか」だったので、海軍では麦飯に切り替えた。すると脚気で死ぬ人が激減した。

この様子を見て「けっ、そんな筈があるもんか」と強情を張ったのが陸軍である。素直に麦飯に切り替えることもなく、有効な手も打たなかった。そればかりか、お抱えのエリートをドイツに留学させ、「麦飯を食べても脚気には関係ない」という論文を書かせて対抗した。その結果、日露戦争における脚気患者25万人、死者3万人近くという悲惨な結果を生んだ。

(ちなみにこのエリートが森鷗外である。こいつに良心はないのか。子供の頃から嫌いな作家であったなぁ…。)

以上により、(1)何となく思っていることって意外にあてにならない、(2)ムキになると無理を通して悲劇を呼ぶ、という人間の悲しい本質の二側面が確認された。これが目下進行中なのが、わが国における「小学校で英語を教える」という動きである。

「小学校で英語を教えるようにする」…これはあまりにも無茶苦茶な話なので、正気の人間が相手にする話題ではない。「子供の方が早い」というのは「ジャガイモからネズミ」レベルのウソである。文科省は「でもそれなりの効果がある筈」という理屈をお抱え学者の審議会で出させようとしているが、難航している(ちなみにその中教審「外国語専門部会」のメンバーは文科省の「方向性」に沿った人ばかり20名、小学校の現場の人がたった1名。そんな出来試合をやっても議論が難航するのである)。

それでもやるという。外国人講師を使うそうだ。全国に公立小学校は2万3千校あるが、小学校専属講師は121人(これは文科省が公表している数字)。どうするつもりなのか。これまで通り「民間で(正体不明の外国人を)雇う」というパターンを続けるつもりか。これまで通り大麻・覚醒剤・教え子への強制わいせつなど数知れない犯罪を生み続けながら。

いや、ホントの話、こうして真面目に書いているのがバカバカしいような話なんですよ。原理的にムチャクチャ。でもまぁやりたいって言うんだから良いかなと思いたくても、実際問題としてやれる筈がない。一から十までムチャクチャなんですよ。

それがグイグイと強引に推し進められている。その力学は以下の通りである。

日本において英語という支配者言語の持つ心理的圧迫は周知の通りである。特に戦後「アメリカ式合理主義」に向けて盲目的に突進した英語の出来ないオッサンたちの気持ちは察するにあまりある。彼らを非難しようとは思わない。

そんな脂ぎったお金持ちのオッサンたちが1991年12月臨時行政改革推進審議会の背後から「英語ができなきゃいかんよこどもにやらせようよ」という圧迫を加えた。これもまぁ、わかる。まずは「そうですねぇ」と聞いてあげれば良かったのだ。そして「皆さん英語が出来た方が良いと思われるのでしたら、皆さん自身で習得なさってはいかがですか?」とやんわり言ってあげれば良かったのだ。

ところが時の文部省は(お金も欲しいのだろう)彼らに耳を貸してしまった。ここらで話がおかしくなる。「国際理解教育」の一環として小学校における英語学習を実験し始めるのである。

もちろん、「国際理解」のためには、周りの人たちに耳を傾けて理解しようとする姿勢が必要である。相手が誰なのか考慮せずに英語を振り回してグイグイ自分の言いたいことを相手に押し付けようとするのは、その正反対の姿勢である。それをやるのが「国際理解」だという感覚、これは正気ではない。

この無茶な話の背後には「日本はアメリカ式合理主義に負けたのだ、これを乗り越えるのだ、こん畜生、とにかくアメリカみたいにやるのだ…」という深い心の傷があるわけである。懸命に日本を再建してきたオッサンたちの歪んだ叫びとして理解してあげることは出来るだろう。しかし、それとこれとは別問題である。

実はこの話、もう一つ奥行きがある。その数年前、1985年の段階で、アメリカは日本に対して「おまえ儲けすぎだろ。おまえががんばったら、俺が負けるじゃないか。そんなに働くなよ」という圧力をかけた。日本は素直に「あぁ日本人は働きすぎですわねぇ、ダメですわねぇ」とドンドン週休二日制を導入してみせた。学校もこれに従った。2002年の段階では中学校でも週休二日制となり、当然授業時間数も減った。いわゆる「ゆとり教育」である。

アメリカ式合理主義に追随しようとするあまりアメリカの言うことには逆らえない。「おまえが良い成績だと俺が一番になれないから勉強するな」という合理的な理屈にも逆らえなかった。悲しい話である。

もちろん、学校の時間数を減らせば学力は下がる。あまりにも当たり前の話である。特に語学なんてのは絶対時間数が決定的である。

当然ながら、2004年、経済協力開発機構の学習到達度調査で「日本の子供の学力低下は深刻である」という動かぬ結果が出た。「小学校英語を将来は全国に」と文科省大臣が発言したのと同じ年だっただけに、あまりのバカバカしさにここで大変な議論がなされる。

それでも「小学校で英語をやる」というのだ。まず原理として無茶だし、それどころじゃない筈だし、先生もいない。試験的に行った小学校からは「特に効果なし」という結果が上がっている上、中学校でちゃんと英語を学ぶ前から「英語がキライ」という子供を増やしているという実態もある。そりゃ、そうでしょう。やるなら発音指導の出来る講師がついて週5回ぐらいやる筈である。ところが実態は週に一度「あっぷる〜。さんきゅ〜」とか言って遊んでいるだけである。言語が身に付かないどころか、積極的にアホになりそうである。

それでもやるというのだ。いくら何でもオカシイ。これは、他に何かがあるに違いない。

そう思って調べてみると、以上の大騒ぎが進行してきたここ数年間、英検の1級・準1級合格者数は年々増加しているのだ。おやおや。さらにTOEICのある程度以上の点数取得者(一応795~で数えてみた)もガンガン増えているのだ。およよ。

こういった資格試験は子供対象ではない。青少年〜大人対象である。その人たちがバンバンやっておられるのだ。これはどうも「英語の出来る日本人を作るのだぁ。小学校から英語をぉ」という馬鹿騒ぎを横目で見て「こりゃ大変だ、文科省や学校には任せられん」と判断する冷静な人や企業が増えているということではなかろうか。

前述の脂ぎったオッサンたちには、実はさらに大きな計画があったのかも知れない。「小学校でも英語」という餌をまいておき、それに引っかかる人々を振り分ける、そういう計画である。これに引っかかる人々は当然英語を身に付けることもないし、そもそも国際理解なんてそれこそ理解の外であろう。「自分のことしか考えない」人々がかかる。うまいことに、子供の段階で「英語なんかキライ」という人々さえ出てきた。こういう人間が国際理解に至ることはないであろう。

こういう人でないと軍隊で人殺しをやってくれないのである。これは悲しい真実である。ちゃんと教育を受け、外国語の一つも学び、世界にはいろんな人がいるということを実感した人間は戦争に行ってくれないのだ。現にイラクやアフガニスタンで死んでいくアメリカ兵は、そのほとんどが教育も所得も低い地方出身者である。悲しい真実である。

すなわち、軍を抱える国としては(日本は世界有数の軍事国である)、納豆が痩せると聞けば納豆に走り、バナナが痩せると聞けばバナナに走り、やっぱり外国語は子供にやらせなきゃと思うような人々を一定数振り分けておきたいわけである。そこで、この度は文科省も抱え込んで一芝居打ってみたわけである。案の定、見事にかかってきた。相手のことなど考えず英語でグイグイ押しまくりそうな、いやその英語もキライになってくれそうな、軍事要員予備人員を確保したわけである。その一方、そんなバカな話からは身をかわす人もハッキリした。狙い通りといったところか。この背後に軍事大国アメリカがどれほどかかわっているかは知らない。しかし、これまでの経緯からして、冗談にならんかも知れないという気もする。

かくして人種や言語で区別のつきにくいこの国の二極化は、かつて福沢諭吉が喝破した通り、「学ぶ人、学ばない人」という形で浮かび上がる。「学ばせる人、学ばせない人」ではないのである。

(…以上、あってもよさそうな話でしょ。まぁ最後の軍事要員確保陰謀説はともかくとしてもね。少なくとも、「小学校で英語」という話は、それほどバカバカしい話なのですよ。)

2008年11月11日火曜日

脳もほどける八十一夜(←意味不明)

やっと気温が下がって「秋!」という感じの風が吹く…かと思ったら急に暑くなるし、蚊が出るし、梅雨みたいに雨が降る。先日乗ったモノレールでは冷房がかかっていた。もう11月だぞ。

こうなったら、我々が普通に培ってきた季節感をいくら懐かしがっても仕方ない。この調子だと、この日本は「暑い季節」と「ちょっと寒い季節」の二項対立しかない南国の島になりそうである。

日本の各種ビジネスにおかれては「これからは南国」ということで手を打っておられるに相違ない。英語教育も「南国の英語対応」ということで手を打つ必要があろう。南国になってからでは遅い。今のうちに、「このパパイヤはあのバナナよりも安いですよ」「新しい腰蓑の具合はいかがですか」というような例文を盛り込んだ教科書を準備しておく必要がある。

そんなわけでこちらも時代を先取りして、アフリカの音楽家の作品集とかギリシャのポップとか Souad Massi というアルジェリア生まれの歌手とかを仕入れて聴いている。ううむ南国。

(しかしどう考えても飲み物は北の方がウマイような気がするんだが…一般にスコッチも日本酒も寒い所で…まぁ良いか。南国でも北の飲み物を楽しめば良いではないか。そうだそうだ。)

…というアホなことを近鉄電車の中で書いているのだから南国を待つ身も平和なものである。もっとも、こんな駄文を書いている大きな理由は「インターネットにつながらないから」である。すなわち目下仕上げねばならない翻訳は、様々な薬の名前や実験装置の名前が飛び交うすさまじいものなので、調べないとわからないのでありますな。

つい先日までは下原稿を作るためにヒマさえあればカチャカチャと作業していた(したがってこのような駄文を書くヒマもなかった)。ところがとうとう「後で調べようっと」と思って残した箇所を片づける段になった。こうなると電車の中で作業というわけにはいかなくなる。やぁれやれ。できんがな。というわけでこうして日本語の文章を綴ることになる。

「当てにならないインターネットで調べるなんて、なんと不真面目な仕事態度」と思われるかもしれない。でもねぇ、調べる対象によっては、これしかないんですわ。とゆーか、インターネットがなかった頃は、こんなことできませんでしたよ。

例えば「○○薬を入れた試験管をABC装置のバルブに装着して」とかいう話になると、こちらには何だかわからないので、とりあえずインターネットで確認することになる。何しろ(最新の実験機器)ABC装置なんて辞書に載ってないし、当該メーカーに問い合わせるなんてのは最終手段だろうし、まぁ手頃な手段なのだ。

「そんなのわからなくても英語に直せば良いじゃない」と思う方もあるかもしれないが、もちろん言葉が相手だとそうはいかない。上の例であれば、「試験管」が複数形なのかどうか、「バルブ」が単数形なのかどうか、この辺りがわからないと言葉になってくれないのである。そこでABC装置の現物写真を眺め、その装置を大体どんなふうに使うのかをザッと調べることになる。できればこの器具について「(試験管を)装着する」はどういう表現を使うのか、メーカーのサイトなどで確認する。それでもわからなかったりする。疲れる話でしょ。翻訳とは、そういう作業なのである。

そんな作業をしていると頭の中の言語処理部分が本当に「どーかなっちゃった」ような気分になることもある。英語における単複の別や、日本語における長幼の区別(「兄」「弟」の類)をはじめとして、一方の言語では平然とフツーにやることが他方の言語では存在しない事例はよくある。んで、特にない方からある方へ置き換えようとすると、内容を与えてもらえない形式だけが頭の中で見事に空転する。翻訳作業中は、これをまとまった時間にわたって繰り返すことになる。

すると個別言語の文法に振り回されて知覚・思考を行っている「自分」というものがバラランとほどけてしまいそうな一瞬がやってくる。「ここにいる自分という現象は言葉の上に映写された像に過ぎない…今その言葉がバラランと解けた…そこに映写されていた自分なる現象はフニャリと周囲の暗黒空間に溶け込み…」という、台本にしたら前衛演劇も真っ青の現実が迫ってくる。危険。キケン。

おぉ駅につく。こういう人間が電車を降りて歩き始めるのである。ご注意。