2009年11月9日月曜日

2009年10月12日月曜日

2009年10月4日日曜日

シカゴに幽閉…じゃないんだけど

時差ボケである。これはツライ。別に飛行機に乗ってどこかに行っていたわけではない。勝手に一人時差ボケしている。

すなわち久々に講釈師業務のためグイグイと朝5時に起き、久々にドンドン電車に乗り、久々に業務して帰宅してバッタと倒れる。久々の業務ストレスは久々に強烈であるから、起き上がって夕食をとる際には久々に(でもないか)ドンドン飲んでしまう。バッタと寝る。

んで、深夜に起き上がる。やっと自分の生命を取り戻したような気分になり、座って本を読む。読む。読む。明け方に眠る。

…んで、朝起きる頃には立派な時差ボケ状態になっているわけですな。以後は見事なもんで、「ちょっと寝て起きる→仕事→倒れる→食べる→倒れる→起きる→束の間の生命→ちょっと寝て…」恐ろしいですねぇ。

これじゃ不健康。ダメじゃん。自己管理がなっとらん。アカンがな。というわけで一念発起して、週末の午後は風呂につかり、心身の疲労を回復して夕食とする。健康な早寝・早起きパターンを取り戻すのだ。わはははは。

するとついまたブドウ酒が進み、スルリと寝てしまう。んで深夜に起きて本を読んで…あらら。こうして一人時差ボケは続く。身体の周期が周囲の状況に合わないという、実感としてホントにあの時差ボケである。

やぁれやれ。まぁ、ある意味、別世界からシャバ世界に戻ったんだから、時差ボケぐらい当然か。こういうのは、我を通さず逆らわず、徐々に適応していくのが一番。

目下、昼間であるが、身体感覚としては深夜の感じ。っつーことは、我が身は米国のどっかという感じか(今しがたパッと調べたら目下シカゴで深夜過ぎ)。よりによって、そんなとこに同期せんでもよろしいがな。

それにしても眠くてしょうがない。情けない話であるが、何も手につかぬ。少しは目が覚めるかと思ってこういう駄文を書き始めたのだが、ますます眠くなってきた。この駄文のオチも何もない。あきらめて少し寝るか。あぁこれではシカゴから出られん…

2009年8月28日金曜日

Snow Leopard に焼酎で対抗する

新しいオモチャは大好きであるから、新しいOSが出ると飛びついてしまう。こりゃもう性格というもんでして。したがって新しい Mac OS X の発売日である本日、早速入手してインストールしてしまった。

もちろん、安定性とかセキュリティに基づけば、「新しい=悪い」が大原則である。新しいものには飛びつかず、問題点も解決策も概ね出尽くしたところでスッと乗り換えるのが賢明な大人である。しかしまた、新しいオモチャに飛びつくのも楽しいではないですか。

特に今回の 10.5(通称 Leopard)から10.6(通称 Snow Leopard)への移行は、フツーのユーザーにとって劇的なものではない(実はOSの底の方からゴボッと組み直しているんだけど、お気楽ユーザーにはじぇ〜んじぇん気にならない)。「インテルマックでインテル対応のアプリを使ってるなら、この方が軽くて良いよ」というアップデートみたいな部分が大きいのである。

事実、我がMacBookで、単純にハードディスクのスペースで比較すると:

10.5 のとき
総容量 111.47GB
空容量 42.44GB
使用中 69.03GB

そのまま10.6にアップグレードしたら
総容量 119.69GB
空容量 55.22GB
使用中 64.47GB

すなわち、アップグレードしただけで12~13ギガ増えた感覚である。全体に動作も速くなっており、なんだか身軽になった。こりゃよろしいですな。っつーか、なんでそもそもの総容量が増えるのか。数え方を変えたのか。

誰でも「これまでのアプリは走るのか?」と思いますわな。QuickTime Pro をバリバリ使わないと仕事にならない身としては、根こそぎ新しい QuickTime が気にかかっていた…んだけど、何のことはない、新しいやつは面白いし、これまでの QuickTime Pro もそのまま「ユーティリティ」というフォルダに残る。両方使えるのだ。こりゃ便利。

なお、Power PC アプリを使いたい人はインストール時に「ロゼッタ」を入れればOK。のはず。あぁ便利。

しかしまぁ良いことばかりでもないですな。「あららら」と思うこともある。とりあえず問題2つ。

(1)日本語入力システムの egbridge が機能しない。まぁねぇ、egbridge 自体、「終了」した製品ですから、いつかは別れるしかないんですけど(なお「電子辞典ビューア」はちゃんとアプリとして走ります)。というわけで、目下「ことえり」でこれを書いております。

(2)知る人ぞ知る「iTunesのジャンル日本語表記問題」から逃げられなくなる。すなわち、iTunes上にある楽曲ファイルの英語ジャンル名が、再生した途端に日本語に変わってしまうという悪夢のような問題である。

10.5までは、(1)管理者アカウントに入る;(2)アプリケーションフォルダにある iTunes を選んでcommand+I;(3)言語メニューから「日本語」のチェックを外す…という手順を踏めば、iTunesは英語で走るので、とりあえず悪夢を回避できた。ところが 10.6 にはそんな言語メニューは存在しないのだ。なるほど、こうして軽くなったわけか。

というわけで、とりあえず今日のところは言語環境全体を英語にして使ってます。Finder もアプリも全部英語になります。

(なお、あとになって Language Switcher という無料アプリを発見。アプリごとに走らせる言語を設定できるという便利モノである。これがあれば…)

以上、いずれも「日本語が使いにくくなった」という問題である。英語の世界に押されているようで、面白くない気分である。他言語サポートをスリムにしたらこうなった、ということかもしれんけどねぇ、やっぱし英語による言語的帝国支配の空気を感じてしまうんですな。

くそ。面白くない。せめて食卓の上は守るぞ。今夜は豆腐(冷奴)と寿司と焼酎でいきます。では失礼。

2009年8月25日火曜日

エイゴという名の宗教、TOEICという名の御布施

TOEICという英語のテストがある。まぁ資格試験である。日本人と韓国人ぐらいしか受けないのであるが、ずいぶんなお金が動くテストであることは間違いない。日本で英語稼業をしていればこのテストの話をしないわけにはいかない。

したがって The Japan Times という日本の英字新聞に詳しい記事が出たのも不思議ではない…のは良いけど、こりゃ知らなかった。思ったより大きなお金が動いてますよ。講釈師業のネタを改訂する必要がある。大体TOEICの話をすると、お客さんはお金の話で驚くのであるが、どうも、すみませんでした。実際には、もっと大きな金額らしいですな…。

すなわち2008年における単純な売上だけで90億円近くである。支出としては、ETS(テストを製作している米国の「非営利」団体)に払う印税が推定15億円。前年比で倍増した理由は不明(というのがちょっとひっかかる;何があったんだろう)。その他、コンピュータを使って受けるスピーキングとライティングのテストが赤字、インタビューテストやフランス語のテストが赤字、中国に進出するための費用やら何やらで支出がかさんで…TOEICを主催する「公益法人」である国際ビジネスコミュニケーション協会(従業員156名)の推定黒字額は1億円程度。累計黒字は20億円近く。ここでちょっと首をかしげたくなる。売上90億で、黒字が1億?

さて、この「公益法人」に営利企業がいくつか絡みついている。人事から建物に至るまでズブズブに癒着しつつ、TOEICの問題集を発行したりスクールを経営したり、まぁ見事に持ちつ持たれつの関係である。

営利企業の目的は営利である。どれほど巨額の利益が出ても、更なる利益を追求して行動する。その幹部がどれほど高額の給料を取ろうと、とりあえず文句は言えない。資本主義の世界とはそういうものである。

んで、これらの営利企業との間でどれほどのお金がどういう形で動いているのかは不明である。つまり、売上90億で黒字1億の「公益法人」が顔にはなっているけれど、その実態は複数の営利企業が絡んだ関連企業複合体というわけである。「ビューティフル・エージング協会」なる不思議な団体も絡んでおり、もはやTOEICも英語もどっかに飛んじゃった世界である。

そんなTOEICであるが、公開テスト受験料が突然1割程度引き下げられた。普通、こういうのは、「来年度から値下げ」とかやれば混乱が少ないのであるが、いきなり値下げして、「もう申し込んじゃった人は後から値下げ分を返金しますから」というのだから、大慌てである。ふぅむ、どうしたんだろうねぇ。

…そんな英語のテストが資格試験として不動の位置を確立しているのが日本という国である。良くも悪くも、「お金の国、日本」である。

資本主義体制においては、常にどこかに大量のお金がダブつく。昔なら豪華なお寺を建てたり仏像を作ったり(西洋ならスゴイ教会を建てたり彫刻を作ったり)して何とかした。いや、今でも宗教団体がかなりのお金を吸収している。別に「教え」がどうのこうのとか「信じている」とかいう話ではない、広義の宗教がカネの流れ着く先なのである。振り込め詐欺も頑張っているが、やはり草の根活動に過ぎない。

言うまでもなく、日本においてエイゴは一つの宗教である。TOEICをめぐるお金の動き方、組織の絡み方は、それをよく示している。

…というような話をベラベラと喋るのが、我が講釈師業なのであります。哀しく貧しい薄給講師です。ダブついたお金に来て欲しいと思います。

2009年8月7日金曜日

書物と酒と今と昔

巷はすっかり夏である。道を歩く小学生の姿も中学生の姿も見えない。学校関係は夏休みなのだ。わはははは夏休みぃ。

そんな中、まだ大学講釈師業の業務が続く。今さら文科省のバカバカしさを嘆く元気も湧かんけど、大学が率先して愚かな振る舞いを演じなければならないのは少々寂しい話でありますな。

講師控室なるものに座っているうち、出番の時刻が近づく。英会話学校の日々、「さぁそろそろ拷問部屋(torture chamber)に入る時間だ」などと同僚と冗談を交わしながら業務を開始したことをふと思い出す。だんだん大学も英会話学校みたいになってきたなぁ。逃げても逃げても追ってくる。つい何十年か前まで、大学といえば(あるいは大学らしい大学といえば)、金持ちの中から選ばれた男性が身支度して行く場所であった。今は、まるで違う場所である。別に「悪くなった」わけではない。これは世の流れの常なのだ。

今ではインターネットなるものが普及して、つーまらない情報がわんさと得られるようになっている。有用な情報は少ない。心身の滋養になる情報となるとさらに限られる。まぁ、そうなるんですわな。ちゃんと良いものはあり、また悪いものもある。これは変わらない。

紙とインクによる書物にせよ、特にコンピュータ製版+安っぽい糊綴(のりとじ)の本がわんさと出るようになってからは、ずいぶん事情が変わってしまった。1行読めば1行分だけ成長させてくれるような本に出会うのが困難になった。別にすべてが悪くなったわけではない。マトモな書物はちゃんと存在している。読んでためになる本が相対的に減ったけど。まぁ、そうなるんですわな。

書物といえば立派な装丁の本だった時代は良かったとも言えない。金の力でつーまらない本を出し、それを大量にバラまくこともできた。「印刷術のおかげでくだらない本が増えたねぇ。俺達の頃はねぇ、借りてきた本を懸命に筆写したもんよ。近頃の若いもんはダメだね。第一、きちんと字が書けないじゃないか。学力低下だよ…」みたいなことを言った人も多かったであろう。

いやいや、その筆写とやらも書記言語あっての話である。世界には数千の言語が存在するが、文字を持っている言語は驚くほど少ない。言語とは、基本的に音なのだ。したがって、「俺達の頃はねぇ、村の長老が語る物語をそのまま覚えたもんよ。近頃の連中は何でも字で書いちゃうから、覚えようとしない。あれじゃ本当にわかったとは言えないね…」と語った人々も多かったはずである(ただ、それを書いてくれなかったから、今の我々はそれを知ることがないのである)。まぁ、そうなるんですわな。世の流れの常でありますな。

要するに、味わうに足るものも、つまらないものも、その中間のものも、色々あるわけである。どの時代でも同じ。仮に「昔の方が良かった」としても、それが今でも味わえるのであればそれは今のものだし、失われてしまったものであればそれはもう決して手に入らない。ひょっとしたら「未来の方が良い」のかもしれないが、それはまだ手に入らないのだから仕方ない。

以上、前置きでした。えーと、実はですね、先ほど『明治屋酒類辞典』というのを眺めていたんですな。これによると、紀元前4200年にはバビロンにビールがあり、紀元前3000年にはエジプトにビールがあり、紀元前1000年にはギリシャ人が葡萄酒を水で割って飲んだというのである。まぁこの水割りは水の消毒のためだろうとは思う…けれど気になる。そしてやはり紀元前4200年のビール! そのように記録が残っているからには、それなりの質を持っていたのではなかろうか。いずれにせよ味見してみたいではないか。ううぅ…

しかし、上記の理路により、まぁ基本的には変わらんだろう、うまい酒もあれば、そうでない酒もあったんだろう、という推論が導かれる。何かが違うような気がする人もあるかもしれないが、気にしてはいけない。世の中、そう変わりませんって。その意味では、我々は現在を生きつつ紀元前4200年をも生きているのだ。

そう自分に言い聞かせつつ安い発泡酒の缶を疑わしげに眺める。うむ。それにしても、もう少し贅沢しても良いのではないか。日本の教育の質を高めるためにも重要なことではなかろうか。うむうむ。やはりドイツの葡萄酒といってみるか。うむうむ。では失礼。

2009年7月22日水曜日

皆既日食とくれば…

これしか、ないでしょ。


朝からこの曲をバンバンかけたのであった…

2009年6月28日日曜日

遠い異国の物語…なのか?

マイケル・ジャクソン(もちろん仲間内ではジャイケル・マクソンと呼ぶ)氏の訃報、そしてその関連ニュースを次々に目にする。ううむ、ああいう人物となると、ゆっくり静かに死ぬこともできないんですなぁ。

いや本人は死んでるんだから気にしないでしょう…とも言い切れない。大々的なコンサートを控えていたこともあり、死亡状況によっては保険金がおりるかおりないかの瀬戸際であるからして、検死結果をめぐる騒ぎが続いている。ああいう人物ともなると、ゆっくり死なしておいてくれないのである。いささか気の毒でありますな。

英語系メディアだけかと思ったら、日本語のメディアでも結構話題にしている。へえぇと思っていくつかの記事を見る。

この毎日新聞の記事はちょっと面白い。その前日リハーサル現場にいたフィリップス氏(行われるはずだったコンサートの興行社幹部)について、「約3時間ステージに立ったマイケルさんは、20歳のダンサーたちと同じかそれ以上の巧みなダンスを披露し、「観客をとりこにし、偉大に見えた」と振り返った」としている。「偉大に見えた」はオカシイだろうと思ってもとのセリフを調べてみると(例えばこういうところで確認できる)案の定 'He looked great'(元気な様子だった)だった。あんなに元気そうだったのに、その翌日に死ぬなんて、ということである(さらに深読みすれば「だから保険金はおりて当然だ」という話でもある)。今さらこの種の誤訳をあげつらってどうこう言うつもりはない。英語世界のニュースが日本語の世界に入るときは大概こんなもんである。こんなレベルのニュースがまかり通るほど、日本というシステムは恐ろしいほど閉じたシステムなのだ。

この読売新聞の記事は別の意味で面白い。「マイケル・ジャクソンの主なアルバムと代表曲」という表がついていて、そこに売上枚数が「世界/日本」と仕分けして書いてあるのだ。職場で昼食をとりつつこれを見たときは「エッ!」と声を上げてしまって口から食べ物がこぼれそうになったぞ。あの「スリラー」は世界1億500万枚、日本250万枚。「オフ・ザ・ウォール」は世界2000万枚、日本50万枚。等々。

こんなもんですかねぇ。愚にも付かぬ日本人歌手のアルバムでも何百万枚か売れてしまうんですよ。地球レベルで見るとすさまじい金持ち国の日本ですよ(特にこの辺のアルバムが売れてた頃はすごかったはず)。したがって、も〜っと日本での売上は多いかと思ったんだけどなぁ。まぁ、どのみち自分では買わない種類の音楽であるから、何とも言えんですけど。

他の日本語記事を眺めつつ「あぁこれも日本メディアにとっては、やはり遠い異国のお話なんだなぁ」と実感する。マイケル・ジャクソンなんぞ聞かない人間がこう実感するんだから、こりゃ大したものである。イランの大統領選も、ますます深刻化する人身売買の問題も、枯渇しつつある魚資源の話題も、日本語の世界では完全なるよそ事のようである。

もちろん、とりあえずは、それでよろしいのである。というか、どうしてもそうなりますわな。遠くの話は遠いのだ。当たり前といえば当たり前。…でもね、日本というシステムは、ちょっとその度が過ぎてるようでありますよ。

2009年6月19日金曜日

マーキュリーな午後を歩く

どさ回りの毎日である。電車の上では英国のテレビ番組ばかり見ている。今日は「今まで語られなかったフレディー・マーキュリー(Freddie Mercury - the Untold Story)」を見る。

これには驚きましたよ。まず出てくるクイーンの曲が片っ端からわかってしまう自分に驚く…けど、まぁこれはクイーンのファンとして当然の部類でしょうか。しかし、次々に出てくる関係者が語るフレディ・マーキュリーという人物には、「ううむこのペルシャ人英国人、非凡な奴」と感心させられる。

そしてまた、この番組の作りがどうしようもなく英国調というか島国調というか浪花節なのだ。淡々と事実を並べていくドキュメンタリーなんだけど、それだけに意外なところで不覚にも涙が出ますよ。ああああぁ。いやホンマ、もし見てなかったら、見てご覧なさい。YouTube でも一応見られるし(バラバラに分割されてるけど)。

番組を見終わり、電車を降りる。ホントなら職場に直行するところだけど、ちょいと時間に余裕があるので街を歩く。もちろんクイーンをガンガン聞きながらである。やや、今度行こうと思っていたパブも見つけたぞ。生きている間にビールもバンバン飲まなきゃね。あぁ今日は桜桃忌か。太宰治も最近売れているらしい。不思議な話だ。何だか高校生の頃の自分に戻ったような気分になって歩く。なかなかオトナにはなれないようである。


2009年5月10日日曜日

翻訳すると…

翻訳すると、変わっちゃう。これは誰もが知ってるつもりのことである。例えば日本の「箸」を英語にして chopsticks とか hashi とか表現した途端に別物になってしまう。あるいは、より正確に言うと、その英語を理解する人が理解している内容はなかなか「箸」にはなってくれない。

ひょんなことから英語の世界で「(日本の)スシ」とか「(日本の)ハシ」とか思っておられるものの画像を集めて見た:

ご覧の通り、「ハシ」が流麗に配置されている。もちろん、日本の箸としてはお行儀の悪いことこの上ない話である。これを見て失笑する日本人がいてもおかしくはない。が、もはや「ハシ」となってしまったのだからやむを得ない。別物なのである。

当然ながら、こういうのはお互い様である。西洋料理で使われるナイフやフォークなども、ひとたび「ナイフ」「フォーク」「スプーン」等になってしまったからには、もう別物である。それどころか、日本の「洋食」は箸で食べることもある。これを見て首をかしげる西洋人がいてもおかしくはない。が、もはや「フォーク」であり「スプーン」であり「洋食」なのだから、ある程度やむを得ない。もはや別物なのだ。

日本に住み日本語で生活しながら英語をネタにして細々と暮らしていると、本当に毎日毎日この種のズレを観察することになる。それを指摘すると不機嫌を買うことも多いので黙っているのであるが、それなりに指摘しないと商売にならない。難しいんですよ。そりゃストレスもたまりますわな。そういうわけで、今夕はビールと自家製梅酒と葡萄酒が用意してあるのでございます。さあぁて、どれからいこうかな…

2009年4月29日水曜日

決して好みの曲ではなかったけれど…

こんなに良い演奏は珍しい。

あちこちの国の路上で演奏している無名の人々を次々に回り、録音を重ねていったそうである。道具はラップトップとマイクとヘッドフォン(とスピーカかな)。

どいつもこいつも実力あるわぁ。
ううむ。いっちょ、路上演奏やってみようか…


2009年4月19日日曜日

不思議インターネット世界

こりゃ不思議。打ち込んだ文字が「逆さま」になる(文字の種類にもよる)。コピペしても同じ。

ケイト・ブッシュのファンなら必見。この人のビデオの変な場面ばかり見ることができる。

普通に再生しても逆回し再生しても同一になるビデオクリップを作った人もいる。こりゃ大変だったはず。


レコードプレーヤーが懐かしいのはネコも同じ。



高画質でスローモーションしてみると…(全画面表示推奨)

2009年3月2日月曜日

鬼は外、エイリアンは内

たまの休日はありがたいものである。ぜひ有効に利用して世のため人のためになる活動に勤しまねばならぬ。というわけで、「エイリアンの一気見」を敢行する。すなわち、'Alien', 'Aliens', 'Alien 3', 'Alien Resurrection' という「エイリアン・ボックス・セット」を一気に見てしまうという、この上なくバカバカしい、そして眼球の疲労する乱行に挑戦したわけである。

ウワサによると、1作目は古典的傑作、2作目は駄作、3作目はダメダメ、4作目はもうムチャクチャというのであったが、果たせるかな、ほぼその通りであった。まぁ見ているうちにだんだんとエイリアンの姿に慣れてきて、それに反比例するかのように筋書きがどうでもよくなってきて、しまいにはもう何が何だかわかんなくなってくるんだけどね。

それにしても一番最初の作品、非常に良くできている。大道具・小道具の細部に至るまで気を使ってあることがよくわかる。いや、何といってもジェリー・ゴールドスミスの音楽がすごい。無調のスコアがこれほど狂おしく深く美しいというのは大したことである。メイン・タイトルなど、短いながらも、公平に見て(聴いて?)ベルクの「ヴァイオリン協奏曲」やシェーンベルクの「浄夜」などと同列に並べても良い作品ではないかとさえ思われる。ウソだと思ったらちょっと聴いてごらんなさい。「ははぁ、まぁ、なるほどねぇ」ぐらいには思っていただけるはずである。

この映画については実に多くが語られている。フロイト式解釈とやらも根強い。エイリアンなる怪物は男根の象徴であって云々という、ある意味わかりやすいけどやっぱりピンと来ない(けど「ピンと来ないのはあなたの抑圧によるのだ」とくるかな)という、いつものパターンである。

まぁねえ。もちろんフロイト式がダメとは言わない。実際フロイトさんの当時はヒステリー患者を始めとしてたくさんの人を治したんでしょう。フロイトの物の見方も我々に多くを気付かせてくれる。その限りにおいて全然文句は言わない。でもねぇ、今やヴィクトリア朝的におしとやかで抑圧的な時代でもないし、何でもかんでも性的抑圧がどうのこうのって疲れますよ。

(特に現代日本においては、電車の吊り広告一つとってみても、はしたないのを通り越して非現実的なレベルに達しておりますでしょ。日本に来る西洋人の皆さんなんか、これを一目見て目を回すことになってるんですから。抑圧と言われてもねぇ…。ましてこっちは学生時代からユングに染まっているせいか、フロイト流がある程度を超えると「違うでしょ」と反応する。)

というわけで、エイリアンって怪物が出てくるんだから、そりゃやっぱし怪物でしょう。んで、怖い怪物ってのは、我々自身が心のどこかに抱えているから怖いわけですな。あるいは、より正確には、「心の中に抱えてるんだけど、それを認めたくないから見えないことにしている、だから非定形の「よくわからない物」になっている」ことが怪物性を生むということになりましょうか。何しろこの線で素直に考えれば、要するにこのエイリアン、我々の中の怪物なのだ。事実、映画の筋書きにおいては、文字通りまさに我々の中に巣くい、そこから飛び出して大暴れする。

エイリアンが我々の中に巣くう経緯もいやぁ〜な感じですよ。すなわち、人間の身体を宿主として生まれ、餌として育つ。つまり、別に殺意や敵意があるわけではないのだ。ただ、自分たちが繁殖するために人間を食べ物として使う。

普通の怪物モノであれば、我々とは完全に別のところに存在する怪物が、暴力的攻撃性をもってこちらに襲いかかってくる。だからこちらも暴力的に応戦する。あるいはヒーローが登場して怪物を退治したりする。ちゃんちゃん♪で終わる。我々は我々、怪物はあっちなのだ。

ところがエイリアンの物語を追っていると、どうしても「この怪物は自分の中にいる」と気付く。別に殺意も敵意も恨みはないけれど、自分が生きていくために相手を殺して食べる。我々が毎日のようにやっていることではないか。殺される相手にとってみれば、たまったものではないだろう。しかし生きていくというのはそういうことであって、こりゃもう仕方ない。

「こりゃもう仕方ない」とわかっているからこそ、見ていていやぁな感じがするわけであろう。その怪物は圧倒的に強い。妙に知能が高い。そいつに殺される。食われる。言葉は通じない。というか、「俺が生きるためにアンタを食うよ」という相手に対して理屈を並べても仕方ないから、仮に言葉が通じても無駄なのだ。

恨みっこなしで殺され食われる。これほど不気味な話があろうか。その怪物的行為を現実世界において自分も行っている。これほど不気味な話があろうか。この不気味二重構造の上に「エイリアン」という映画は乗っかっている。

なお、2作目になると、このエイリアンがわんさと大量に出てきて大活劇となる。決して知性的とは言えない米国海兵隊の面々がやられていくところが何かを語っているようだ…と言い始めるにはあまりにもあまりなB級映画になっている。3作目となると、丸腰の人間がエイリアンから走って逃げるだけという話になり、これはもう野卑なイギリス英語に興味のある人はどうぞとしか言い様がない(これはこれで楽しいけどね)。おまけの4作目となるともう怪獣モノである。

しかしまぁ、それもやむを得ない。「我々の内なる怪物」という不気味なテーマは最初に終わっちゃったのだ。すると、あとは昔ながらの「我々の外の怪物」ネタにずり落ちていくしかないのだ。するとどうしても子供向け怪獣モノになるわけである。(それはそれで楽しいけどね。)

その路線で突っ走るのがエイリアン対プレデターのシリーズである。さすがにここまで付き合う気力はないけれど、面白いことに、映画としてここまで来ると「子供に見せられないような場面」「子供に聞かせたくない言葉」は姿を消していく。つまり、名実ともにお子様向けになっているのだ。

「最初はオトナのテーマがあったけど、あとはキャラが独り歩きして子供向けになる」パターンはお馴染ですな。江戸川乱歩の怪人二十面相シリーズとか、ゴジラのシリーズとか。まぁ、そういうもんなんだろうなぁ。とか思いながら強烈に目が疲れた4本立てなのであった。目の疲れにはブルーベリーでしたっけ。まぁブドウ酒も似たようなもんでしょう。そうでしょうそうでしょう。

2009年2月23日月曜日

中国武術映画に酒道を見た…のか

日頃は映画なんて滅多に見ない。時間がかかって面倒なのである。でも予告編ならチョイチョイ見ることがある。数年前、ジェット・リーの出演する映画の予告編を見て、「この人の動きはずいぶん良いな」と思って驚いた。それからしばらく経ち、また別の映画の予告編を見て、「この人の動きはずいぶん良いな」と思って驚いた。

こんな具合に期間をおいては同じように驚いていたのでは疲れますがな。何しろこのジェット・リーというやつは非凡に巧いに相違ない。あきらめてちゃんと見てみよう。そう思ってこの人が出演する映画を何本かパラパラと見てみたら、確かにうまい。こりゃタダモノではないなと思って調べてみたら若い頃から(というか小さい頃から)中国で何度も優勝している武術家であった。なんと17歳かそこらで現役引退している(ケガのためだそうである)。

どの映画も、筋書きはどーでも良いほど単純である(端的にくだらないことも多い)。要するにジェット・リーがクルクルと華麗にして強靭な技量を披露してくれれば良いのだから、まぁそれでよろしいのであろう(その意味では、少林寺(Shaolin Temple)シリーズなど初期のころの作品の方が、素直で楽しい作りになっていてお勧め)。その単純な筋書きの背後には常に「武術なるもの、相手を破壊するためのものではない」という主題が底流している。

習い覚えた武術を振り回して活躍すれば相手が倒れる。ところがホントはそれをやっちゃいけない。なんとも単純なジレンマというか矛盾であるが、あらゆる武術モノはこの主題から逃げるわけにいかない。というより、およそ武術・武道等と名のつくものはこの主題を提示するものである。

およそ他人に危害を加えるのはよろしくない。っつーか、もし本当に危害を加えたいのなら、エッチラオッチラ修業など積んでおらず、刃物とか飛び道具を使うのが早い。現に、今の世の中で実際に行われている戦争を見るが良い。相手に勝つための修業を積んでおられる様子など極めて稀薄である。ひたすら残虐な兵器を身体的実感とは無縁の世界で開発し、それをできるだけ身体的実感と離れた形で使用している。兵器をボタン一つで発射し、殺される人の実際の姿をできるだけ想像せずに済ませているという図である。これって何だかヤバイよオカシイよ…と思うのがまともな感覚であろう。

武術映画の類は、どうやらここら辺を確認させてくれるものであるらしい。ちゃんと自分でしっかり現場を見ながら自分の力で他人に危害を加える。んで、「これはいけないことなんです」とくる。

見ている方はとりあえず「ははぁなるほど」と思うが、次に「それはわかったけど…あんた、やってるじゃん。どうしてわざわざそんな修業するのさ。やっちゃダメなんでしょ」という疑問に移行する。それに対しては、「そうで〜す。やっちゃダメなんです。確かに役に立つけど、あえて役に立てない技術です。でもさぁ、見てて楽しいでしょ、見事なもんでしょ」という趣旨の答が用意される。

考えてみれば、人間というもの、生きている間にいろいろな技量を身に付け、磨いて磨いて、そうして死んでいく。「何のため?」と言われちゃったらオシマイ。その技量の分野が武術であろうが、音楽であろうが、学問であろうが、同じことである。こういうレベルでは、「まぁ、ささやかながら人様のお役に立てば…」みたいな話が出てきてチャンチャン♪と話が終わるのが通例である。

したがって、武術系映画も「見てて楽しい、見事なもんだ」で楽しめばよろしいのである。しかしまた、そこには大道芸を観て「こりゃ楽しい、見事なもんだ」と思うのとは異質の説得力がある。やはり身体性というこの上なく具体的な土台の上に修行者共通の倫理観が生まれるからであろうか。

例によって、以上の考察は前置きである。ここから導かれる結論はただ一つ。本当は飲まない方が良いのかもしれないが、酒を飲めば楽しい。時に飲み過ぎて「これはいけないことなんだ」と悟る。人間、生きている間に飲んで飲んで死んでいく。「何のため」と問うてはオシマイである。酔いというこの上なく具体的な身体性の上に一種の倫理観が現れるのが杜氏の仕事というものであろうか。飲む方は、「こりゃ楽しい、見事なもんだ」となるのが最善であるか。うむうむ。では失礼して。

2009年2月17日火曜日

とある動物病院の壁に

米国イリノイ州在住の友人が動物病院の壁に見つけたのがこれ。



「この世に生まれてくるのは、ちゃんと生きること、みんなと仲良くすることを習うためだ。でも動物は習わなくてもできる。だから長居の必要がない。」

2009年1月9日金曜日

アメリカ英語を話す人々

イスラエルは奇妙な国である。「ガザなんていらないよ」と公言しながら、そこに居る人々をドンドン殺戮する。誰だって眼の前で残虐に家族や仲間が殺されれば「何をしやがるんだ」と思うものである。だから「イスラエル憎し」というグループができ、力は及ばないながらも仇討ちを試みる。イスラエルはこれをテロと呼び、さらに残虐な殺戮を猛然と行う。

長年続くこのパターン、もちろん「イスラエル」を「アメリカ」と読み替え、「ガザ」をアフガニスタンとかイラクとかコソボとかその他多数の地名に置き換えれば、アッと言う間に「今日の世界情勢入門」修了である。ガザにせよ、停戦の提案はすべてイスラエルとアメリカの二国が却下ないし無視する。これほどわかりやすい図はないと思うのだが、聡明な大学生諸君などまでが「中東事情は難しいですからねぇ」などと思考停止なさっているのだから、メディアの力は大したものである。しかし、そんなメディアを通じてでも何かを感じることはできる。

BBCのニュースで今回の殺戮についてイスラエル側の人がインタビューを受けているのを聞く。その女性は、奇妙に明るい、張りのある声で「だってハマスは最悪のテロ組織なんだもの。イスラエルは爆撃の前、ガザの人々の上に予告のビラをまいたのよ。それは凄い数のビラで、雪のように降ったのよ。それを見ればわかった筈だし、普通の人は逃げれば良いのよ。悪いのはハマス、攻撃対象はハマス」と妙に流暢なアメリカ英語で述べた…流暢ではあるが明らかにその人の母語ではないのがわかる、奇妙な緊張を持った声である(第一、ハマスの「ハ」の音が英語じゃないもんね)。

イスラエルの役人も同様である。「ハ」の音のきつい「ハマス」を繰り返しながら、いかにイスラエルが当然のことをしているかを力説する。「ガザでは殺戮されて困っている民間人が続出しているんですけど」とBBC側が水を向けると、「そういう人もいるでしょうけど、あなた、ちゃんとあっち側の代表的な声を聞きましたか。皆さん、ハマスというテロ組織の圧力から自由になって喜んでいますよ。そっちの方が大事」と力強く力説する。その言い分もさることながら、それをすべて差し引いて、純粋に言語事実として観察しても、その奇妙な英語は、イントネーション、ものの言い方、すべてがアメリカ英語的なのだ。聞いていると本当に不思議な気分になってくる。

それから数日経った。BBCは在ロンドンのイスラエル大使にインタビューする。イスラエルは民間人の虐殺を続けており、「3時間」とかいう一時的停戦協定をも破っており、あろうことか救急車を狙い撃ちしており、さすがに言い訳がしにくくなっているが、それでもイスラエル大使は「でも悪いのはハマス」を繰り返す。ロンドン在住のせいであろうか、特にアメリカ英語!という印象はないけれど、やはり奇妙に緊張した流暢な英語である。

…ところがそれがガラガラと崩れる。それはBBC側が「それをもう25年間おっしゃってますが理由にはならないようですね」「だからといってこれだけの数の民間人犠牲者を出して良いことになりますか」と畳みかけたときである。イスラエル大使は一瞬絶句し、「う、それは、良いことにはなりませんよ。あなた、戦争ってのはね。そういうもので。良いことじゃなくてでもね。ガザが今ある、他のね受けたイスラエルの、あ、そこの」…と語順も語句も狂った英語にはまりこんだのである。

このインタビューだけ聞いていたならば、「あ、都合の悪いことを聞かれてしどろもどろになったな」とか思うところだが、数日来ずっと「イスラエルの人がアメリカ英語的にアメリカ的論理を展開する」のに耳を傾けていたので、純粋に言語的な意味で「あ、イスラエルの人のアメリカ英語が崩れた」と感じられた。それは不思議な感覚だった。

イスラエル大使はすぐに立ち直り、上手な英語でイスラエル擁護を続けた。この人、この英語の皮をむいたら結構良い人なのかも知れない。

アフガニスタンの「民主的政権」とやらもアメリカ英語を理解する人々である。もちろん、営利企業アメリカが選んだのである。イラクも同様である。

ところで日本では知らないうちに「小学校で英語」とか「高校の英語の授業は英語で」とか言い始めていますな。いや、実は、中学校なんかですでに米国人が一人で「先生」している現場もあるんですよ。これって日本の法律による「先生」になのかなぁ。

もう待ってられない、日本の人たちも流暢なアメリカ英語でアメリカ的なことを語れっていうことでしょうか。もちろん当初の教育効果はゼロでしょうけれど、法律ってヤツは一度作ればドンドン姿を変えていきますからねぇ。当初は「特殊な職業の人のため」に作られた法律がアッと言う間に派遣切りの道具になるんですよ。こういう技は、金儲けのうまい弁護士が考えつくんでしょうねぇ。

そういう弁護士にとって裁判員制度はオイシイでしょうねぇ。素人を説き伏せる、これがアメリカ流弁護士の腕の見せ所ですからねぇ。

教育もなく弁護士にもなれずイラクに派兵された米国人は大変ですよ。死亡者の5%が自殺なんですから、どんな状況か想像するとねぇ。命が助かって帰国しても、何のサポートもないので、その三分の一がホームレスだといいますねぇ。それが日本にさえ行けば英語の先生になれるというんなら朗報でしょうねぇ。何しろ小学校という新規開拓地が公立だけで23,000校ありますからねぇ。ノバみたいにつぶれないだろうし。

今日もイスラエルはアメリカ英語で「悪いのはハマス」と繰り返しながら殺戮を繰り返す。イスラエルに対する撤退要求が満場一致で決まった…中で唯一棄権した国は、もちろんアメリカである。きっとアメリカ英語を話しながら。