2010年8月29日日曜日

病気って、教わるのか

数年前の話である。米国で看護師になる訓練を受けていたアンドレイ君(ロシア人)が、「日本人その他のアジア人は痛みを我慢しすぎるから、ちゃんと痛み止めを飲むように教えてやるべきだ」と習ったという話をしてくれた。ついでに「モルヒネ等鎮痛剤の使用量国別比較」の図も見せてくれた。確かにすげー違いだった。


しかし、もちろん「教えてやるべき」というところにはひっかかった。つまりその、愉快な気分にならないでしょ。だからこそ、アンドレイ君にしても日本人の友人に言いたくなったわけであろう。

うまく言えないが、「痛いんだよ」「この薬で助かるよ」「我慢はダメよ」と教えてあげる態度を傲慢と感じる、という要素がそこにはある。しかしスッキリしない。まぁ放っておいた。

そうしている間も、日本では「うつ」が流行し続けていた。「私うつなんです」「僕もうつなんだぁ」「うつでも良いじゃないか」「うつと仲良く暮らそう」「まぁどうでも良いからクスリ出してください」といった不思議な文言を目にし、耳にし続けて今日に至っている。

その前から、「過労死」(これは日本の現象として英語にも入り込み、karoshi としてフツーに辞書に載るようになっている)を認知するのが当たり前になり、「うちの子が死んだのは会社が残業させすぎたからだ」という論理が何となく受け入れられる空気が醸成されてきた。

そしてまた、地震や事故があると、その物理的な被害者もさることながら、PTSDなる不思議なアルファベットを使った名前があちこちで躍るようになった。

他にもいろいろあるが、モルヒネの話にも、うつ(広義に「メンヘル」の一言でくくられる現象も含めて)の流行にも、過労死の認知にも、PTSDなるものの広がりにも、何か共通の変な感じがある。でもそれが何なのかよくわからなかった。

んで、今朝方、それがちょっとつながったような気がしたのですな。すなわち、今年(2010年)1月に出た本の話を聞いたのである。「我々と同じにオカシイはず:いかにアメリカが自分の病理を相手に押し付けているか」という趣旨の題名の本である(Ethan Watters, Crazy like us: the globalization of the American psyche)。

題名がすべてを語っている感じだが、要するに米国の医療・製薬産業が他国に向かって自分の基準による病気を投げ掛け、クスリを売って儲けている、という話である。「ホントかよ」と息巻いたり「ケシカラン」と義憤に駆られたり「やっぱりそういうことか」と早合点する必要はないと思う。しかし、「こりゃありそうな話だわな」と思えるのは事実である。

例に挙がっているのは、香港における拒食症、スリランカにおけるPTSD、アフリカのザンジバルにおける統合失調症(旧称:分裂病)、日本における鬱病だそうな。いずれも、それまでには、そのような形では存在しなかった疾病が米国医療の指導によって認知され、爆発的に広がった例であるらしい。

あとは実際に読んでみないとわかりまっしぇん。けど、正しいかどうかは別として、大変面白い視点である。

病気には「言われてからなる」という側面もある。それは、大きな災害のあと、現場にテレビの取材屋が入って「悲しいですか」的なアホな質問を発して遺族を落涙に追い込むのにも似ていようか。そうしておいてから「君のせいじゃないよ」と慰め、ハンカチを差し出し、そのハンカチ代はしっかり受け取るわけである。

西洋医学が標準となり、「ハイあなたはこういう病気。こういう治療をしましょうね」とか「あ、健診の結果、あなたこういう危険がありますからね。ヤバいよ。気をつけてね」とか言われ続けておれば、何か納得できないような、鈍い反抗感が心の底にゆっくり生じるかも知れない。

そこにホメオパシーなんていう不思議な療法が入り込む。従来の西洋医学ではわからないことがあるんだよ。ほら、この「レメディ」を飲んでごらん。毒素の「記憶」が振動となって君の体を…というまるで怪しい話にコロリとやられるのも、「おまえはこういう病気なんだ、こうするのが正しいんだ」と教えられ続けたことに対する反抗心の現れなのかも知れない。ところがホメオパシーにせよ、西洋から教えられたものなのだ。やれやれ。

これに気がつくと逃げ場がない。そこから顔を背けるために「あぁやはり何でも日本が一番、日本のものが一番」となり、やれ日本の品格とか何とか言い出す。国内の神霊スポットやら「パワースポット」やらが流行る。人間の愚かさは底なしのようである。

…という理路でよろしいのかどうか、まったく知らない。先ほど淀川のほとりを走りながらとりとめもなく考えたことを、そのまま思考ジャジャ漏れ状態で記しただけである。結論も何もない。んじゃ、あとはよろしく。

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