2010年9月28日火曜日

国勢調査に記す大人への道

なりたい なりたい
 なりたい なりたい
  オトナにな〜り〜た〜い

てな歌を、むか〜し昔「みんなのうた」でやってたと思う。「大人になったらコーヒーを飲んじゃう♪」と続くのである。あうぅコーヒーですかぃ…。

コーヒーに憧れなかったのはさておき、そもそも大人になること自体に憧れることがなかった。しかしまぁ、周囲から何かと束縛されるのに非常な抵抗を感じる性分なので、「サッサとここから逃れたい」という心理の一形式として大人になりたい気持ちはあったと思う。っつーか、程度の差こそあれ、誰でもそうなんじゃないでしょうか。

だから周囲のオトナを見て「あぁ自分もこうなるんだろうかなぁ」と未来に投げかける遠い気分を味わうことはしばしばであった。無意味に薄っぺらい靴下を履く。黒い革靴(あるいは合成皮革かな)を履く。ワイシャツを着てネクタイを締める。電車に乗ればとにかく座ろうとする。そしてスポーツ新聞のエロ記事を奇妙に傲然とした態度で眺める。髪の毛は整髪料かなんかでペタリと撫で付け、小さな鞄を面倒くさそうに持って歩く。野球などのプロスポーツを気にかける。等々。束縛から自由な大人の生活も楽ではない…。

ところが目下の生活は、このいずれにも該当しないのだ。こりゃいけん。まだまだオトナになれとらんではないか。それどころか、そういうオトナの皆さんからいかに離れて電車に乗ったり道を歩いたりするかということに気を使うことが多い。日本の経済を支えるオトナの皆さんに対して何と失礼なことであろうか。

あぁ経済。これも大人になったら大いなる興味を持ってその行方に一喜一憂しながら仕事に出かけるものだと思っていた。景気とか株価とか投資とか金融といった言葉を気にしながら日経新聞なんか読んで生きているのがオトナだと思っていた。ところが何ということか、大人として仕事をして給料をもらいつつ、そんなことには興味がないのである。無理に経済学と言われればマルクスに行ってしまって景気とか株価とかを振り回したり振り回されたりしている人間を追ってしまう。この世界、お金の現象だけ、それもその表層だけ、切り離して眺めても意味ないし面白くないもん。っつーか、そもそも株価とか投資とか言ってる人の顔は楽しそうではないことが多い。踊らされている人の目をしている。

あぁますます大人になれないじゃないの。社会の現実とやらに直面できんよ。こういうタイプの人間がおかしな思想やら宗教やらに走るのだ。困るね。

確かにおかしな思想やら宗教やらにはとっくに走ってしまっている。思えば中学1年生の時に「ソクラテスの弁明」を読んだのが始まりだったか、あるいは田中美知太郎の入門書だったか、あとはもうドイツ観念論もフランス現代思想も禅仏教もイスラーム教も神秘思想もキリスト教もごちゃまぜである。節度も何もあったもんじゃない。

しかし、そんな立派な本をたくさん読めば立派な大人になれるのではないか。そんな淡い希望もすぐ砕け散る。すなわち、長ずるに及んで言葉そのものをジーッと見る世界に迷い込んだのである(大人の世界ではこれを言語学といったりする)。これではどんな立派な本も言葉に還元されてしまう。立派な世界にもおかしな世界にも走れない。走っても良いけど、そうやって走っている自分をまたジーッと見て還元することになる。シラケの骨頂である。

立派な話も言葉に還元される。会社の世界もその組織構造で見る。電車で化粧や食事をする人々も見ても「いかなる力学があの行動を支えているのか」と考える。すっかり秋めいて気持ちの良い風が吹くと「あれほどいたセミはどこに行ったのか。大阪府下のセミの死骸をすべて料理すれば一年ぐらい食っていけるのではないか、いややはり半年ぐらいか、保存はどうするのか」とまじめに考える。およそロクでもないガキである。

そんなのが言葉を解体し還元し大学という職場に行ってその言葉をベラベラ喋っているのだ。これでよろしいのであろうか。

…そんな日本で「国勢調査」なるものをやるからと書類を渡された。職務内容の欄には誇りを持って「講釈師」と記入した。

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自己紹介

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日本生まれ、日本育ち…だが、オーストラリアのクイーンズランド大学で修行してMA(言語学・英文法専攻;ハドルストンに師事)。 日本に戻ってから、英会話産業の社員になったり、翻訳・通訳をやったり、大学の英語講師をしたりしつつ、「世の中から降りた楽しい人生」を実践中、のはずです。