2011年8月6日土曜日

翻訳・通訳2例の背景とは

翻訳や通訳に一般論はない。ひたすら個々の作業をドンドン積み重ねるだけである。純粋な言語レベルにおいては、うまい方法もコツもない。

(そりゃまぁ、「疲れたらチョコレートを口に放り込む」などの身体的コツはいろいろと伝わっているのだが、それは別の話。)

結果が良いと、お客さんはそれに気がつかないのが普通である。これが最上。同業者でもなければ、「やや今の訳ウマイな」とか「お、この人の訳文は読みやすいな」なんて思わないものである。

したがって、翻訳や通訳にお客さんの注意が向くのは「ダメなとき」である。損な商売だねぇ。

もちろん、その翻訳者・通訳者の実力が原因という場合も多い。こりゃもう、「しっかり勉強いたしましょう」と言うばかりである。

しかし、無視できないのが「(翻訳者ではない)一般の皆様の不理解による惨事」である。訳すとはどういう作業かわかってない、職人の扱い方を心得ていない、その結果ダメになる。これは傍から見ていてもツライもんですよ。

この度の「アインシュタイン伝記ムチャクチャ翻訳事件」はその好例であろう。担当翻訳者の一人がアマゾンのレビュー欄で述べている話は非常によくわかる。早い話、「サッサと出さなきゃ採算合わないし、えーいやっちゃえ」なのである。その結果「あらら」と驚いているのである。始めからわかっとることではないか。アホかいな。

関わった翻訳者にしてみれば腹の底から怒りが湧き上がることであろう。というか、翻訳者なら必ずや周囲の無理解というかアホぶりに腹を立てたことがある筈だ。あああぁこう書きながらこっちまで腹が立ってきたぞ。

そもそも「おカネ優先」の態度が困る。んで、おカネ優先の人ほど、「そんな甘いこと言ってられないんだよ」「大学の先生とかは現実世界の厳しさを知らん」などと嘯くので困る。甘いのはおまえらだろうが。いやもう、別にケンカもしたくない。あのさぁ、お互い、きちんと仕事しましょうよ。できない人は、せめて他人に迷惑をかけてはいけません。

かつて英和辞典の仕事にかかわったときもそうだった。キチンとした仕事手順を決めておきながら、あとになって「そんなこと言ってられないから」というので平然とグチャグチャの中身にしていく有り様を目の当たりにして言葉を失った。これが大手出版社の商業主義か。そんなにおカネが好きなら米国に行ってドンドン刷ってるドル札に埋もれて米国経済と共に沈没するが良い。

目先のおカネにとらわれる人たちが管理側に回る。職人や技術者の声は押しつぶされる。こうして日本の原子力発電所ができていった。これも直視しましょうよ。そろそろおカネは卒業しましょうよ。

もう一つ。英国人英会話講師が日本人の男に殺害された事件がありましたでしょ。整形しながら逃亡を続けた容疑者が有名になってしまった例の事件。

その裁判がこの前行われた際、被害者の家族(英国人)が出席するというので通訳がついたわけです。その通訳内容がかなり酷かったというのであります。英語→日本語で、「日本は安全な国とは言えなくなった」が「一番危険な国になった」になったり、「2年間は浴槽に浸かれなかった」が「2年間は取り戻せない」になったり、等々。

これを報じる記事を読みながら、始めのうちは「確かにヒドイわなぁ」と思っていたのだが、途中で事情がわかって愕然とした。通訳は一人だったというのである。そんなアホな。

ご存知の人はご存知の通り、ホイホイやるような案内通訳の類は別として、ちょっとでも正式な場での通訳は2人(以上)のチームになって行う。会議とか、ましてや裁判の場で、2言語を同時に扱う職人芸を一人で長時間にわたってできるわけがない。普通は10分前後で交代するのだ。

(そうじゃないと通訳担当者は頭の中がグチャグチャになり、「ぷぎゃ〜!!!」とか叫んで机をひっくり返したくなるほど追いつめられる。ホントです。ウソだと思ったらやってごらん。)

この種の通訳は一人じゃ無理。そんな常識の無い人たちがこの裁判の手筈を整えたのであろう。それがコワイと思う。

今の世の中、皆さん学校に行っておられる。ホントに外国語ができるようになる人は少数である。それで当然だと思う。しかし、言葉について、言語使用について、ある程度の常識は皆さん身に付けてもよろしいのではないか。

それは、医者になる人は少数でも、医療についての常識は皆さんある程度身に付けるべきだというのと同じである。

今どき、「ちょっと頭が痛いから神社に行ってお祓いしてもらおっかな」という人は少ないであろう。しかし、つい何十年か前、百年以上前ならもっと、そんな人は多かったんですよ。もちろん、今の医療常識にせよ、ドンドン変わっていくことであろう。教育とは、進歩とは、そういうものである。

学校とは、そういうことを講じるべき場所であろう。ところがじっと観察していると、「今、この場で、どう誤魔化して得をするか」の練習をしてきた人たちがゾロゾロと大学にやってくる。大学の教員も、「とにかく基準をクリアするためにうまく立ち回ってきた人」が多い(その文科省の基準とやらがそもそもグチャグチャだったりするんだけど)。

まぁ、いちいち文句を言うつもりはありまへん。生き方に一般論はない。ひたすら個々の行為を積み上げるだけである。ウマイ方法もコツもない。素直にやろうよ。そう言いたかっただけです。

2011年8月4日木曜日

日本ってそんな国なのかい

そりゃノルウェーの大量殺人事件にはビックリしましたよ。被害状況がだんだん明らかになる。被害者数も判明していく。容疑者が逮捕される。うわぁアラブ人イスラム教徒じゃなかった。普通の白人だ。そんな驚きを隠しきれぬまま、その顔写真を載せた記事が数多く出てくる…

ところがある時期を境にメディア、特に大手メディアは、居心地悪そうにフッと口を閉じるのである。もちろん、「ある時期」とは、「そもそもこの男はどうしてこんな事件を起こしちゃったのか」という話が展開し始めるときである。このパターン、乱射事件や猟奇事件がある時は、そして犯人が白人の時は、いつも同じである。

理由は簡単、居心地の悪い、語りたくない話題だからである。「犯人は頭のオカシイやつだ」で切り捨てたい気持ちもある。事実、それで終わらせようとする報道機関もある(日本ならそれが主流といったところか)。しかし、オトナの社会におけるオトナのメディアとしては、「あの犯人もおれたちの一部なんだ」という事実と直面して語らねばならない。事実、これをハッキリと明言するニュース記事もいくつかあった(英語メディアとなると数も多く層も厚いので、いろいろと報じてくれるというのもある)。

悪いものから顔を背けず、まっすぐ取り組む。これは難しいことなのだ。がんばって実行しても、読者の方が「顔を背けたい」と念じていたら嫌われてしまう。特に大手だと「数ある読者の中には嫌がる人もいるし…」と気を使ったつもりになって、敬遠してしまいがちになる。だから全体として急に静かになる。という仕掛けである。

まことに未発達の心理とはスジの通らぬ心理である。「凶悪犯は外国人であってほしい(そのはずだ)」という気分はお子様社会に広く見られる(その「外国人」から見れば自分も「外国人」になってしまうという単純な論理さえ見逃すところがお子様たる所以である)。そうでなければ、今度は「それでも自分とは違うヤツだ、頭のオカシイやつだ」になる。オトナになるまでにはいろいろと大変である。

…ってなことを考えながらも、やはりノルウェーは遠いし、高みの見物気分でいたわけです。だからその犯人がネチネチと長年書きためていたという文書に「日本や韓国は良い。民族の純潔を保っているので良い」云々という内容が繰り返し繰り返しネチネチ書かれていたと知った時には、何やら気持ち悪ぅい、懐に虫でも入ったような気分になった。

げげげカンケー無いと思ってたのに。なんで急に日本なのさ。待てよ。オレも「あの犯人はどっか遠くの頭のオカシイやつ」と思いたがっていたわけか…。

それからしばらくたって、この犯人が「日本人医師による精神鑑定を希望している」というニュースを見た。今度こそ居心地悪いぞ。何しろこっちはたまたま今日本に居るんだからな。っつーか、すいません、今度こそ「どっか遠くのカンケー無い頭のオカシイやつ」と思いたいんですけど、よろしいでしょうか。悪を受け止めるのも結構なんですけど、そこまでヒマじゃないんですぅ…