2024年9月18日水曜日

音・言葉は感染します

誰もが感じていることじゃなかろうか。

ギターを弾く連中は、なんだかギタリストっぽい。
打楽器の連中は、やっぱり、それっぽい。
そういえば管楽器の連中って、一種の共通点が…

人はそれぞれなので、決めつけることはできない。
しかし「この人、ベースなのかぁ。やっぱり!」
みたいな経験は広く共有されていると思う。

すると、こう考えたくなる:楽器が人を選ぶのだ。

人はそれぞれである。それぞれが自分の意思で
「ギターやってみようかな」
「ちょっとホルンやってみたい」
という具合に楽器を始める。
…かと思いきや、ちょっと違う。

ギタリストの部屋にキーボードがあったり、
バイオリン弾きがフルートも持っていたりする。
「ちょっと手を出したこともあるんですよ」とか言う。
実は、いろんな楽器を試しているものなのだ。

そうしてなんとなく自分の楽器が決まってくる。
これが「自分に合う楽器を見出す」プロセスである。
「自分に合うもの」って、自分で決められないんです。
いろいろやってみて、「感染する」のであります。

言語の場合は、もっと面白い。

ほとんどの場合、母語は与えられる。
日本に生まれて日本語話者になるとか。
これ、選べない。

日常生活・義務教育程度までは土地の母語、
それを越える教育は第二言語に切り替わる…
そんなパターンもある。やはり選べない。

選べるのは、ある程度は自分の意思で
「外国語」を習得し始める時である。
すると先ほどの楽器みたいな話になる。

今の日本では、学校で英語に接することが多い。
これは学校の科目。通例、普通の意味での
言語習得にはつながらない。

しかし「へえぇ、これが外国語かぁ」と思って
英語とかイタリア語とかベトナム語等々に触れ、
まぁまぁ習得してしまうパターンは多い。

そんな人が自分の母語である日本語を使う時、
いかにも特徴が感じられることが多いのだ。

フランス文学・文芸の類が専門の人が書く日本語。
英文学・文芸の類が専門の人が書く日本語。
ギリシャ古典・思想の類が専門の人が書く日本語。
それぞれ、なんだか共通点がある。
楽器を演奏する人の場合と同じ感じなのです。

そこで「言葉が人を選んでる」と思いたくなる。
いろいろ触れるうちに「感染する」のだ。

人間個体は次々に生まれ、また死んでいく。
そこに乗っかって、楽器も言葉も存続する。

我々の「主体性」「好み」「趣味」等々って、
「感染指向性」なのか。そうか。

オレが毎日のように酒を飲むのは、
感染なんだよ。

自己紹介

自分の写真
日本生まれ、日本育ち…だが、オーストラリアのクイーンズランド大学で修行してMA(言語学・英文法専攻;ハドルストンに師事)。 日本に戻ってから、英会話産業の社員になったり、翻訳・通訳をやったり、大学の英語講師をしたりしつつ、「世の中から降りた楽しい人生」を実践中、のはずです。