再びモーツァルトのレクイエムであります。いろいろと出てくるもんですねぇ。
先に言っちゃいますと:
めっちゃ良い演奏やん!
だから、だから…朗読いらないです!
決まった定本譜面がないと、いろいろやってみたくなる。当然でしょう。
古典落語なんかも、数行〜半ページほどのざっとした筋書きが文字として伝わっており、それを演じる場合が多い。これは名演というパフォーマンスがあると、弟子がそのまま覚えて演じる…んだけど、やはりあちこち変えたりする。こうして古典が伝承される…
この場合、「筋書き」はレクイエムという葬送音楽形式。これに曲をつけていた作曲家の書きかけた譜面が、その死によって(そして弟子の妙な努力によって)未完成バラバラ状態。さぁ、どうしましょ。
このたび出てきましたのは、オーストリア生まれ・米国在住の指揮者ホーネックさんによる演奏。「こういう成立事情の曲として、自分なりに長年やってます。モーツァルト葬送、また一般的な葬送の意味も込めてます」という話。
いきなり葬送の鐘ではじまる。そして、伝統的なレクイエム曲やモーツァルト自身によるそれっぽい曲(「フリーメイソンのための葬送音楽」「荘厳晩課」「アヴェ・ヴェルム・コルプス」など)を間にちりばめる。「レクイエム」本体は、モーツァルト自身によるであろう部分を演奏…
ライブ録音ということなんだけど、最近の録音技術は大したもので、すごく音が良い。というか、めっちゃ私好みの音質で、私好みの演奏をやってくれてます。最後の「アヴェ・ヴェルム・コルプス」なんて、最高に良い感じ。見事に作られた綺麗な曲なんだから、おかしな精神性を求めたりせず、素直に上手に演奏しちゃえば良いのであります。
ところがですね、このライブ録音。曲の間にヒョイヒョイと朗読が入っているのだ。これは、うまくやらないと難しいと思うぞ。私の結論は、「マジで要らない!」です。
モーツァルトの書いた父親宛の手紙(の英語訳)、新約聖書「黙示録」(やはり英語訳)のあちこち、そのほか。
これを朗読してくれるのが、映画「アマデウス」でサリエリを演じたエイブラハムさんなのだ。えーっ、そんなん良いの?…っていうか、(映画を知ってる人なら)どういう意味?みたいな感じでしょ。
良い曲は良い、それで良いじゃないですか。「これを書いた時のモーツァルトは…」みたいな背景話は、知りたい人が知りたい時に確認すれば良いんじゃないでしょうか。
キリスト教文化の伝統的な宗教曲としての鎮魂曲(葬送曲)なんだから、歌詞もほぼ定番がある。ラテン語じゃパッと聞いてもわからない、背景となる聖書の箇所を確認したい…という場合には、これまたその時に確認すれば良いじゃないですか。
どんな作品でも、とりあえずその作品を伝えるためにできている。演奏家として、「この作品の背景は…」「私としては…」みたいな説明を作品に入れ込んじゃうのって、どうなんでしょう。
そもそもモーツァルトは英語の人じゃないし、聖書も英語の文書ではない。それぞれの英語訳をアメリカ英語で説明的に聞きながら「レクイエム」…こりゃ違いまっせ。
指揮者ホーネックさんとしては、「そういう説明込みで我々の演奏なのだ」とおっしゃるかもしれない。実を言うと、私はこの音源に添付されているホーネックさんの解説も読んだのであります。音楽家にしては、いろいろと言語化なさる人です。
これこれの曲の何分何秒のところ(これは何小節目です)は、こういう意図でこう演奏した。この曲は、こういう意図でここに持ってきた。そんな説明がどんどん続く。そういう人なんだと思う。だから演奏会も説明的になるんだと思う。啓蒙家にして教育者。演奏もきれいというか、輪郭がはっきりしている。世の中に必要な人材であります。
でもねぇ、背景紹介とか説明って、お葬式には似合わない。「レクイエム(モーツァルト)」はあくまでも鎮魂曲(葬送曲)。その意味では、この前のピションさんたちの演奏が良い!
実際のライブだと印象も違うのかなぁ。いやいや、この朗読から逃げられないだけツライかもしれん。あ、そうか。このデジタル時代のこの録音、不要な部分は飛ばして聞けば良いんじゃないの。