2009年1月9日金曜日

アメリカ英語を話す人々

イスラエルは奇妙な国である。「ガザなんていらないよ」と公言しながら、そこに居る人々をドンドン殺戮する。誰だって眼の前で残虐に家族や仲間が殺されれば「何をしやがるんだ」と思うものである。だから「イスラエル憎し」というグループができ、力は及ばないながらも仇討ちを試みる。イスラエルはこれをテロと呼び、さらに残虐な殺戮を猛然と行う。

長年続くこのパターン、もちろん「イスラエル」を「アメリカ」と読み替え、「ガザ」をアフガニスタンとかイラクとかコソボとかその他多数の地名に置き換えれば、アッと言う間に「今日の世界情勢入門」修了である。ガザにせよ、停戦の提案はすべてイスラエルとアメリカの二国が却下ないし無視する。これほどわかりやすい図はないと思うのだが、聡明な大学生諸君などまでが「中東事情は難しいですからねぇ」などと思考停止なさっているのだから、メディアの力は大したものである。しかし、そんなメディアを通じてでも何かを感じることはできる。

BBCのニュースで今回の殺戮についてイスラエル側の人がインタビューを受けているのを聞く。その女性は、奇妙に明るい、張りのある声で「だってハマスは最悪のテロ組織なんだもの。イスラエルは爆撃の前、ガザの人々の上に予告のビラをまいたのよ。それは凄い数のビラで、雪のように降ったのよ。それを見ればわかった筈だし、普通の人は逃げれば良いのよ。悪いのはハマス、攻撃対象はハマス」と妙に流暢なアメリカ英語で述べた…流暢ではあるが明らかにその人の母語ではないのがわかる、奇妙な緊張を持った声である(第一、ハマスの「ハ」の音が英語じゃないもんね)。

イスラエルの役人も同様である。「ハ」の音のきつい「ハマス」を繰り返しながら、いかにイスラエルが当然のことをしているかを力説する。「ガザでは殺戮されて困っている民間人が続出しているんですけど」とBBC側が水を向けると、「そういう人もいるでしょうけど、あなた、ちゃんとあっち側の代表的な声を聞きましたか。皆さん、ハマスというテロ組織の圧力から自由になって喜んでいますよ。そっちの方が大事」と力強く力説する。その言い分もさることながら、それをすべて差し引いて、純粋に言語事実として観察しても、その奇妙な英語は、イントネーション、ものの言い方、すべてがアメリカ英語的なのだ。聞いていると本当に不思議な気分になってくる。

それから数日経った。BBCは在ロンドンのイスラエル大使にインタビューする。イスラエルは民間人の虐殺を続けており、「3時間」とかいう一時的停戦協定をも破っており、あろうことか救急車を狙い撃ちしており、さすがに言い訳がしにくくなっているが、それでもイスラエル大使は「でも悪いのはハマス」を繰り返す。ロンドン在住のせいであろうか、特にアメリカ英語!という印象はないけれど、やはり奇妙に緊張した流暢な英語である。

…ところがそれがガラガラと崩れる。それはBBC側が「それをもう25年間おっしゃってますが理由にはならないようですね」「だからといってこれだけの数の民間人犠牲者を出して良いことになりますか」と畳みかけたときである。イスラエル大使は一瞬絶句し、「う、それは、良いことにはなりませんよ。あなた、戦争ってのはね。そういうもので。良いことじゃなくてでもね。ガザが今ある、他のね受けたイスラエルの、あ、そこの」…と語順も語句も狂った英語にはまりこんだのである。

このインタビューだけ聞いていたならば、「あ、都合の悪いことを聞かれてしどろもどろになったな」とか思うところだが、数日来ずっと「イスラエルの人がアメリカ英語的にアメリカ的論理を展開する」のに耳を傾けていたので、純粋に言語的な意味で「あ、イスラエルの人のアメリカ英語が崩れた」と感じられた。それは不思議な感覚だった。

イスラエル大使はすぐに立ち直り、上手な英語でイスラエル擁護を続けた。この人、この英語の皮をむいたら結構良い人なのかも知れない。

アフガニスタンの「民主的政権」とやらもアメリカ英語を理解する人々である。もちろん、営利企業アメリカが選んだのである。イラクも同様である。

ところで日本では知らないうちに「小学校で英語」とか「高校の英語の授業は英語で」とか言い始めていますな。いや、実は、中学校なんかですでに米国人が一人で「先生」している現場もあるんですよ。これって日本の法律による「先生」になのかなぁ。

もう待ってられない、日本の人たちも流暢なアメリカ英語でアメリカ的なことを語れっていうことでしょうか。もちろん当初の教育効果はゼロでしょうけれど、法律ってヤツは一度作ればドンドン姿を変えていきますからねぇ。当初は「特殊な職業の人のため」に作られた法律がアッと言う間に派遣切りの道具になるんですよ。こういう技は、金儲けのうまい弁護士が考えつくんでしょうねぇ。

そういう弁護士にとって裁判員制度はオイシイでしょうねぇ。素人を説き伏せる、これがアメリカ流弁護士の腕の見せ所ですからねぇ。

教育もなく弁護士にもなれずイラクに派兵された米国人は大変ですよ。死亡者の5%が自殺なんですから、どんな状況か想像するとねぇ。命が助かって帰国しても、何のサポートもないので、その三分の一がホームレスだといいますねぇ。それが日本にさえ行けば英語の先生になれるというんなら朗報でしょうねぇ。何しろ小学校という新規開拓地が公立だけで23,000校ありますからねぇ。ノバみたいにつぶれないだろうし。

今日もイスラエルはアメリカ英語で「悪いのはハマス」と繰り返しながら殺戮を繰り返す。イスラエルに対する撤退要求が満場一致で決まった…中で唯一棄権した国は、もちろんアメリカである。きっとアメリカ英語を話しながら。

2008年11月26日水曜日

二極分化する軍国日本なのか

(以下の文章、きっと意外な結論にたどり着きますから、まぁ最後まで読んでね。)

錯視という現象がある。パッと2本の線を見て「こちらの線の方が長いに決まってる」と直感的に判断しちゃうけど実は同じ長さだったとか、あの類である。(楽しみたい方は「錯視」で画像検索でもしてください。)

確率についても同様の錯覚が起こる。硬貨を投げて裏が出るか表が出るかは基本的に五分五分の確率である。ところが表が5回ぐらい続けて出ると「もうそろそろ裏が出ないとオカシイ」と思い始めてしまうという、あれである。もちろん硬貨にしてみればさっき表だったか裏だったか覚えておらず、毎回毎回五分五分の確率なのだが、人間というヤツ、どうしても自分の思惑で世界を見てしまう。

ネズミもそうである。かつては「地下の食料倉庫にジャガイモの袋を置いておくとネズミが湧いて出る」と信じられていた。それはもう、経験と実感に裏付けられた理論であった。「他に可能性はない」と思っていたのである。

しつこいようだが、もう一つ。つい百年ちょっと前の日本で脚気が流行した。当時の軍隊で次々に死者が出る。ところが監獄の囚人は元気である。両者の違いは「麦飯を食べるかどうか」だったので、海軍では麦飯に切り替えた。すると脚気で死ぬ人が激減した。

この様子を見て「けっ、そんな筈があるもんか」と強情を張ったのが陸軍である。素直に麦飯に切り替えることもなく、有効な手も打たなかった。そればかりか、お抱えのエリートをドイツに留学させ、「麦飯を食べても脚気には関係ない」という論文を書かせて対抗した。その結果、日露戦争における脚気患者25万人、死者3万人近くという悲惨な結果を生んだ。

(ちなみにこのエリートが森鷗外である。こいつに良心はないのか。子供の頃から嫌いな作家であったなぁ…。)

以上により、(1)何となく思っていることって意外にあてにならない、(2)ムキになると無理を通して悲劇を呼ぶ、という人間の悲しい本質の二側面が確認された。これが目下進行中なのが、わが国における「小学校で英語を教える」という動きである。

「小学校で英語を教えるようにする」…これはあまりにも無茶苦茶な話なので、正気の人間が相手にする話題ではない。「子供の方が早い」というのは「ジャガイモからネズミ」レベルのウソである。文科省は「でもそれなりの効果がある筈」という理屈をお抱え学者の審議会で出させようとしているが、難航している(ちなみにその中教審「外国語専門部会」のメンバーは文科省の「方向性」に沿った人ばかり20名、小学校の現場の人がたった1名。そんな出来試合をやっても議論が難航するのである)。

それでもやるという。外国人講師を使うそうだ。全国に公立小学校は2万3千校あるが、小学校専属講師は121人(これは文科省が公表している数字)。どうするつもりなのか。これまで通り「民間で(正体不明の外国人を)雇う」というパターンを続けるつもりか。これまで通り大麻・覚醒剤・教え子への強制わいせつなど数知れない犯罪を生み続けながら。

いや、ホントの話、こうして真面目に書いているのがバカバカしいような話なんですよ。原理的にムチャクチャ。でもまぁやりたいって言うんだから良いかなと思いたくても、実際問題としてやれる筈がない。一から十までムチャクチャなんですよ。

それがグイグイと強引に推し進められている。その力学は以下の通りである。

日本において英語という支配者言語の持つ心理的圧迫は周知の通りである。特に戦後「アメリカ式合理主義」に向けて盲目的に突進した英語の出来ないオッサンたちの気持ちは察するにあまりある。彼らを非難しようとは思わない。

そんな脂ぎったお金持ちのオッサンたちが1991年12月臨時行政改革推進審議会の背後から「英語ができなきゃいかんよこどもにやらせようよ」という圧迫を加えた。これもまぁ、わかる。まずは「そうですねぇ」と聞いてあげれば良かったのだ。そして「皆さん英語が出来た方が良いと思われるのでしたら、皆さん自身で習得なさってはいかがですか?」とやんわり言ってあげれば良かったのだ。

ところが時の文部省は(お金も欲しいのだろう)彼らに耳を貸してしまった。ここらで話がおかしくなる。「国際理解教育」の一環として小学校における英語学習を実験し始めるのである。

もちろん、「国際理解」のためには、周りの人たちに耳を傾けて理解しようとする姿勢が必要である。相手が誰なのか考慮せずに英語を振り回してグイグイ自分の言いたいことを相手に押し付けようとするのは、その正反対の姿勢である。それをやるのが「国際理解」だという感覚、これは正気ではない。

この無茶な話の背後には「日本はアメリカ式合理主義に負けたのだ、これを乗り越えるのだ、こん畜生、とにかくアメリカみたいにやるのだ…」という深い心の傷があるわけである。懸命に日本を再建してきたオッサンたちの歪んだ叫びとして理解してあげることは出来るだろう。しかし、それとこれとは別問題である。

実はこの話、もう一つ奥行きがある。その数年前、1985年の段階で、アメリカは日本に対して「おまえ儲けすぎだろ。おまえががんばったら、俺が負けるじゃないか。そんなに働くなよ」という圧力をかけた。日本は素直に「あぁ日本人は働きすぎですわねぇ、ダメですわねぇ」とドンドン週休二日制を導入してみせた。学校もこれに従った。2002年の段階では中学校でも週休二日制となり、当然授業時間数も減った。いわゆる「ゆとり教育」である。

アメリカ式合理主義に追随しようとするあまりアメリカの言うことには逆らえない。「おまえが良い成績だと俺が一番になれないから勉強するな」という合理的な理屈にも逆らえなかった。悲しい話である。

もちろん、学校の時間数を減らせば学力は下がる。あまりにも当たり前の話である。特に語学なんてのは絶対時間数が決定的である。

当然ながら、2004年、経済協力開発機構の学習到達度調査で「日本の子供の学力低下は深刻である」という動かぬ結果が出た。「小学校英語を将来は全国に」と文科省大臣が発言したのと同じ年だっただけに、あまりのバカバカしさにここで大変な議論がなされる。

それでも「小学校で英語をやる」というのだ。まず原理として無茶だし、それどころじゃない筈だし、先生もいない。試験的に行った小学校からは「特に効果なし」という結果が上がっている上、中学校でちゃんと英語を学ぶ前から「英語がキライ」という子供を増やしているという実態もある。そりゃ、そうでしょう。やるなら発音指導の出来る講師がついて週5回ぐらいやる筈である。ところが実態は週に一度「あっぷる〜。さんきゅ〜」とか言って遊んでいるだけである。言語が身に付かないどころか、積極的にアホになりそうである。

それでもやるというのだ。いくら何でもオカシイ。これは、他に何かがあるに違いない。

そう思って調べてみると、以上の大騒ぎが進行してきたここ数年間、英検の1級・準1級合格者数は年々増加しているのだ。おやおや。さらにTOEICのある程度以上の点数取得者(一応795~で数えてみた)もガンガン増えているのだ。およよ。

こういった資格試験は子供対象ではない。青少年〜大人対象である。その人たちがバンバンやっておられるのだ。これはどうも「英語の出来る日本人を作るのだぁ。小学校から英語をぉ」という馬鹿騒ぎを横目で見て「こりゃ大変だ、文科省や学校には任せられん」と判断する冷静な人や企業が増えているということではなかろうか。

前述の脂ぎったオッサンたちには、実はさらに大きな計画があったのかも知れない。「小学校でも英語」という餌をまいておき、それに引っかかる人々を振り分ける、そういう計画である。これに引っかかる人々は当然英語を身に付けることもないし、そもそも国際理解なんてそれこそ理解の外であろう。「自分のことしか考えない」人々がかかる。うまいことに、子供の段階で「英語なんかキライ」という人々さえ出てきた。こういう人間が国際理解に至ることはないであろう。

こういう人でないと軍隊で人殺しをやってくれないのである。これは悲しい真実である。ちゃんと教育を受け、外国語の一つも学び、世界にはいろんな人がいるということを実感した人間は戦争に行ってくれないのだ。現にイラクやアフガニスタンで死んでいくアメリカ兵は、そのほとんどが教育も所得も低い地方出身者である。悲しい真実である。

すなわち、軍を抱える国としては(日本は世界有数の軍事国である)、納豆が痩せると聞けば納豆に走り、バナナが痩せると聞けばバナナに走り、やっぱり外国語は子供にやらせなきゃと思うような人々を一定数振り分けておきたいわけである。そこで、この度は文科省も抱え込んで一芝居打ってみたわけである。案の定、見事にかかってきた。相手のことなど考えず英語でグイグイ押しまくりそうな、いやその英語もキライになってくれそうな、軍事要員予備人員を確保したわけである。その一方、そんなバカな話からは身をかわす人もハッキリした。狙い通りといったところか。この背後に軍事大国アメリカがどれほどかかわっているかは知らない。しかし、これまでの経緯からして、冗談にならんかも知れないという気もする。

かくして人種や言語で区別のつきにくいこの国の二極化は、かつて福沢諭吉が喝破した通り、「学ぶ人、学ばない人」という形で浮かび上がる。「学ばせる人、学ばせない人」ではないのである。

(…以上、あってもよさそうな話でしょ。まぁ最後の軍事要員確保陰謀説はともかくとしてもね。少なくとも、「小学校で英語」という話は、それほどバカバカしい話なのですよ。)

2008年11月11日火曜日

脳もほどける八十一夜(←意味不明)

やっと気温が下がって「秋!」という感じの風が吹く…かと思ったら急に暑くなるし、蚊が出るし、梅雨みたいに雨が降る。先日乗ったモノレールでは冷房がかかっていた。もう11月だぞ。

こうなったら、我々が普通に培ってきた季節感をいくら懐かしがっても仕方ない。この調子だと、この日本は「暑い季節」と「ちょっと寒い季節」の二項対立しかない南国の島になりそうである。

日本の各種ビジネスにおかれては「これからは南国」ということで手を打っておられるに相違ない。英語教育も「南国の英語対応」ということで手を打つ必要があろう。南国になってからでは遅い。今のうちに、「このパパイヤはあのバナナよりも安いですよ」「新しい腰蓑の具合はいかがですか」というような例文を盛り込んだ教科書を準備しておく必要がある。

そんなわけでこちらも時代を先取りして、アフリカの音楽家の作品集とかギリシャのポップとか Souad Massi というアルジェリア生まれの歌手とかを仕入れて聴いている。ううむ南国。

(しかしどう考えても飲み物は北の方がウマイような気がするんだが…一般にスコッチも日本酒も寒い所で…まぁ良いか。南国でも北の飲み物を楽しめば良いではないか。そうだそうだ。)

…というアホなことを近鉄電車の中で書いているのだから南国を待つ身も平和なものである。もっとも、こんな駄文を書いている大きな理由は「インターネットにつながらないから」である。すなわち目下仕上げねばならない翻訳は、様々な薬の名前や実験装置の名前が飛び交うすさまじいものなので、調べないとわからないのでありますな。

つい先日までは下原稿を作るためにヒマさえあればカチャカチャと作業していた(したがってこのような駄文を書くヒマもなかった)。ところがとうとう「後で調べようっと」と思って残した箇所を片づける段になった。こうなると電車の中で作業というわけにはいかなくなる。やぁれやれ。できんがな。というわけでこうして日本語の文章を綴ることになる。

「当てにならないインターネットで調べるなんて、なんと不真面目な仕事態度」と思われるかもしれない。でもねぇ、調べる対象によっては、これしかないんですわ。とゆーか、インターネットがなかった頃は、こんなことできませんでしたよ。

例えば「○○薬を入れた試験管をABC装置のバルブに装着して」とかいう話になると、こちらには何だかわからないので、とりあえずインターネットで確認することになる。何しろ(最新の実験機器)ABC装置なんて辞書に載ってないし、当該メーカーに問い合わせるなんてのは最終手段だろうし、まぁ手頃な手段なのだ。

「そんなのわからなくても英語に直せば良いじゃない」と思う方もあるかもしれないが、もちろん言葉が相手だとそうはいかない。上の例であれば、「試験管」が複数形なのかどうか、「バルブ」が単数形なのかどうか、この辺りがわからないと言葉になってくれないのである。そこでABC装置の現物写真を眺め、その装置を大体どんなふうに使うのかをザッと調べることになる。できればこの器具について「(試験管を)装着する」はどういう表現を使うのか、メーカーのサイトなどで確認する。それでもわからなかったりする。疲れる話でしょ。翻訳とは、そういう作業なのである。

そんな作業をしていると頭の中の言語処理部分が本当に「どーかなっちゃった」ような気分になることもある。英語における単複の別や、日本語における長幼の区別(「兄」「弟」の類)をはじめとして、一方の言語では平然とフツーにやることが他方の言語では存在しない事例はよくある。んで、特にない方からある方へ置き換えようとすると、内容を与えてもらえない形式だけが頭の中で見事に空転する。翻訳作業中は、これをまとまった時間にわたって繰り返すことになる。

すると個別言語の文法に振り回されて知覚・思考を行っている「自分」というものがバラランとほどけてしまいそうな一瞬がやってくる。「ここにいる自分という現象は言葉の上に映写された像に過ぎない…今その言葉がバラランと解けた…そこに映写されていた自分なる現象はフニャリと周囲の暗黒空間に溶け込み…」という、台本にしたら前衛演劇も真っ青の現実が迫ってくる。危険。キケン。

おぉ駅につく。こういう人間が電車を降りて歩き始めるのである。ご注意。

2008年10月19日日曜日

豪州のブドウ酒…アッと言う間になくなるんですけど

注文していた豪州ブドウ酒1箱が届く。

おおおおぉ…

1ダース箱の筈なのに本数が少ないなどと言ってはいけない。もちろんこんな写真を撮る頃までには何本かゴクゴクと消費されているのだ。

あとは言うことなどない。ではこれから夕食ですので失礼。わははは…

2008年10月10日金曜日

ハクションの歌なのか?

講釈師業が全開になる。自転車に乗り、あるいは電車に乗り、あるいはバスに乗り、あちこちに移動し、移動先ではギグをやる。要するに road(巡業)というやつであって、バンド屋としては当たり前の生活である。

このロードがねぇ、喉に来るんですよ。いつもおんなじ泣き言を言いたかぁないけど、この町中の空気というヤツ、やっぱし狂ってますよ。講釈師業再開1週間ちょっと経過したら、もう喉がおかしくなってきた。これ、あと何年経ったら社会問題化してくれるのであろうか。

昔は某社の牛乳に砒素が入っていたといって問題になった。今でも中国の野菜やら牛乳やらにとんでもない劇薬が残留しているといって問題になっている。こうして問題になったら、消えていく方向に向かってくれるであろう。街中のタバコの煙もずいぶん減ったではないか。この種のことは、ゆっくりと良い方向に向かっているのだと思いたい。何年か経ったら「あぁ、あの頃の街中の空気はひどかったねぇ。体を壊す人もおったわいな。そりゃ、そうだわな」という思い出話になってくれると思いたい。

そういう希望を胸に抱いても、やっぱし現行の空気の悪さがズバリ喉にくるのだからどうしようもない。げほげほ。助けて。

と思っていたら今度は何だか体が重くなってフラついて熱が出た。なんじゃこりゃ。いわゆる風邪ではないのか。喉は悪化しボロボロ状態になったぞ。あらら〜。

ここで大事を取ってしっかり体を休めるのが常識ある大人である。それでも巡業を休まずギグを続けるのがバンド屋的ロード生活である。言うまでもなく我が生活は後者である。したがって自分でもなんだかよくわからないけれど何となく電車に乗って何となく移動し、ヘロヘロ状態でペラペラと一定の芸を行う。

不定期にカッと頭が熱くなったり急にジットリと汗をかいたりしながら、とにかく声の統御に集中する。ウッカリやってるとすぐ声が出なくなるんだもん。っつーか、声の統御で精一杯。あとはもう、自分でも何が何だかわからない。

規定90分のギグを三つもやると、もう自分などというものは意識できず、フラフラとした意識があちらへユラリ、こちらへヨロリと動いているばかりである。突然クシャミが連続で出る。ああぁ。クシャミは喉に負担なのだ。やめてえぇ。フラフラ。

そんなぼんやりした意識に何度も浮かぶのが、どういうわけか swan song という英語の語句である。ヘロヘロ状態の意識に去来する。何だか全然わからない。なぜだか全然わからない。

…んでまぁ、それが終わっての移動中である今、やはりヘロヘロ状態のまんま電車に乗ってるわけですが、やっとこの swan song を考える余裕はできたわけですな。白鳥の歌。ははぁ。洒落てますなぁ。白鳥は死ぬ直前に最後の美しい歌を歌う、あれを言うのであります。転じて絶筆を意味したりもする。

しかし自分のギグがそれほど美しいとは到底思えないし、死ぬ直前だとも考えたくないぞ。そもそもこの語句が朦朧とした意識に去来していた時には意味なんて全然考えてなかった筈だし。しかしひょっとしたら無意識にそういうことを感じていたのか。げげげ。

いや待てよ。まさか。あのクシャミ。白鳥の歌〜ハクションの歌。ああああぁこれではあまりにも情けないオヤジギャグではないか。しかしひょっとしたら無意識にそういうダジャレを考えていたのか。げげげ。

わからんままに電車は鶴橋駅に到着いたします。今日はギグがもう一つ。それは白鳥の歌なのかハクションの歌なのか、あるいは両方なのか。知らん。ああぁまた連続クシャミが来る。それはダメなんだ喉が痛いんだやめてくれえぇ。フラフラと電車を降りる。

2008年9月19日金曜日

芸人の苦労とは

落語の古今亭志ん生がこんなことを言っていて面白かった。

「まぁ、やはり、何か特殊の研究会だとか、三越の落語会だとか、東宝とかいうところはやりいいですね。あとはみな大衆で、いろいろな人が来ていますからね。だから、少ない客に何するよりか、大ぜいに向くようなことをしゃべっちゃうよりしようがないのですよ。だから、芸術というものはやれませんし営業ですわね(笑)。だから、その人たちが落語がどれだけわかるかということになるのですよ。だから、きらいな人にも食べさせなければならないということになってくるから、なかなか骨になってくるね」(『志ん生芸談』84-85ページ)

おおぉ。あの志ん生と我が身を引き比べるのは気が引けるけど、まさにこれは、大学という職場で講釈師として英語を切り売りしている我が身の状況ではないか。お客さんのニーズに照らすと、どんなに自分としてがんばっても的外れとなる。だから、学問とか何とかいうものはやれませんし営業ですわね、ということになるのである。

誤解のないよう付け加えるが、もちろんお客さんの質が低いと言っているのではない(いや、確かにお客さんの質はドンドン下がっているけど、まぁそれは別問題)。志ん生だって「客が悪い」と言っているわけではない。自分がやるのは落語であり、それがわかるお客がいないとシンドイねと言っているのである。

思えば数年の苦労の後、もう大学の講師は耐えられないと思い、やめようと思った期限が2003年であった(つまり「2003年にはやめるから」と思ってがんばったわけね)。ところが2003年の暮れにiBookとKeynote(プレゼンソフト)を手に入れ、「ちょっと話の練習をしよう」と思い、講師じゃなくて講釈師なら良いだろうとダラダラ続けてみることにした。

それからまた数年。「なかなか骨になってくるね」…志ん生の言葉が沁みる。

実のところ、翻訳業でも何でも同じような事情は当てはまる。要するに芸人職人の類は常にお客さんのニーズとずれるのだ。「自分の好きなこと」とやらをやらしてもらってるんだから、それぐらいは仕方ない。ただ、噺家とか講釈師(講師)となると眼の前のお客さんが多いので、その分ねぇ…。

先人はどうしていたのであろうか、気になってくる。日本における英語学で出色の人物といえば、まず市河三喜である。この人の『英語学』序文には、英語研究分野の文献を紹介する講座をやってみたがあまり成功しなかったという話のあと、こうある。

「…またいろいろな書き足しをして読者の興味をつなぐように努めた。…この書を読んでそこに紹介された碩学先輩の業績の一端に接し、さらに多くを原著について求めようとする心が起らない読者は、もっと興味ある学問なり仕事なりを他の方面に見出すべきであろう」

できるだけサービスはしたけど、これ以上は付き合いきれません、という気持ちが伝わってくる。これが書かれたのは昭和11年(1936年)である。読むと確かに楽しく面白い本である。が、やはりこういう一文を記さずにはおれなかったのであろう。

それより3年前、 Bloomfield の Language という本が出ている。当時の米国言語学におけるバイブルとされた有名な本である。そりゃ、そうでしょう。メチャメチャ面白いもん。まず話題が広い。観察が正確である。えーかげんな話も混ざっているかもしれないが、それはちゃんと調べればよろしい(これが可能であるということは、キチンと書いてあるということである)。「そういえば、ふざけてこんな言い方をすることがあるね」という実例があちこちに出てくる。要するに、ブルームフィールドさんはかなり楽しんでこの本を書いている。したがって読み手も楽しい。

…いや待てよ。っつーか、ブルームフィールドさんも、かなりサービスしているのではないか。もちろん、大学で講義したり本を書いたりするに当たっては、「ちょっと楽しい話も入れておかないとね」という配慮も必須であろう。それがどの程度のものであったのかは、わからない。でも、ある程度は志ん生の言葉が当てはまっていたのかもしれない。そんな気がする。

同じ年に出た Jespersen の Essentials of English Grammar もなかなかに楽しい。これは、すでに出版した(あるいは出版しつつある)自分の本に基づいた圧縮版ということになっている。とゆーか、自分の本をここまで丸写しすることもなかろうに(例えばこの人、今なら喜んでコピー&ペーストしていたであろう)。しかしまぁ、自分が10年前に書いたものを丸写しできるというのは、それだけ自分の書いたものが気に入っているとも言えるわけで、まぁ大したことである。

この人は別に膨大な文法書を書いている(というか、書きつつあった)。わざわざ(時には丸写ししつつ)一冊にまとめた文法書を書く必要はどこから来たのか。その序文には「自分の大きな著作を是非とも一冊の文法書にまとめて欲しいと請われ、何年も躊躇した後、出すことにした」という意味のことが書いてある。やりたいことは巨大な英文法書の完成であるが、ニーズとしては簡略な一冊本なので、それに応じたという図が見える。もちろん、それがダメというわけではない。それが職人であり、芸人というものなのだろう。

その仕事なり芸なりが達者であれば、良いものが生まれる。この一冊本の文法書にせよ、何かを「わからせよう」とか「伝えよう」とか「まとめよう」とか「読んでもらおう」とかいう暑苦しい意図がまるで感じられない。非常にわかりやすくまとまった、読みたくなるものができ上がっている。だからみんな読む。時が経っても読みつがれる。だから古典ということになる。ううむ、大したものですな。

しかしまた、その種の話が通じないと、文字通り「話にならない」ことになる。難しいものですな。ああぁ、来週から講釈師業の再開かぁ…。せめて少しでも先人にあやかりたいと願うのであるが、時には心身ともに疲れ果て、特に精神と神経が疲れ果て、「○○大先生、ちょっとこのお客さんの前でやってみてくださいよ」と言いたくなるときもある。そんな気分になったときには、その○○先生の本でも開く。すると以上のような感慨を持つのであった。

「いち抜けた」の勧め

この国の際立った特徴に「痛み分け」がある。具体的には、シンドイことやイヤな気分をみんなで共有することで和を保つという方法である。

長い歴史の中で発生し培われてきたものであろうから、馬鹿馬鹿しいと一蹴するつもりはない。しかしまぁ、見れば見るほど「悪いけど、いち抜〜けた♪」と一声発して身を引きたくなるし、事実そうさせていただいている。とゆーか、みんなでそうすりゃ良いんじゃないの。そしたら誰も痛がらずに済むでしょ。

見よ、近所の小学校では今日も運動会の練習に余念がない。当日に事故が発生しないよう競技の練習を通じて体の動かし方を指導するのかと思ったら、さにあらず。ただただ愚かしくやかましい音楽に合わせて行進したりグルグル回ったりするのみである。そして、「○○組の勝ちぃ!」という指導者の声に続けて「やったぁ!」と唱和する練習、これを繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し行うのである。もちろんその指導者は、ひたすらヒステリックに喚きまくるだけの女教師である。

早い話、専制国家におけるマスゲームの練習である。誰も本質的な動機を体感していない。誰も楽しんでいない。盲目的な愚かしさに引っ張られ、体の動かし方も頭の使い方もわからぬまま、みんなでイヤな気持ちをわけあっている図である。これを6年間お続けになった後、見事に役に立たない12〜13歳人口がポコポコ流出する仕組みである。

(人間が集まってこの種の全体主義的行動を取るようになる、それは指導者の知性が低く、教育レベルも下がったときである。学校でも会社でも宗教団体でも国家でもその例は見られるが、まぁ今の世の中なら「アメリカ」と一言申し上げれば一発で通じるであろうか。)

もちろん、その人口を吸い込む中学校でも高校でも同様である。誰も本質を体感せず、誰も楽しまない環境で、納得できない全体主義が進行する。その暴力から一瞬身をかわした一時を「楽しい思い出」と称して胸に記録することもあろうが、それはアウシュビッツ収容所における美談の類である。とりあえず巨大な不快が前提となっており、それを皆で我慢する。

ちなみに、こういう学校で否を唱えてグレたりする人間は、○○スクールというような「厳しく鍛えてくれるところ」に収容される可能性が高い。つまり、「おまえだけ不快から逃げるとは何事だ」というわけで、強制的に不快が割り当てられるわけである。もちろん、○○スクールに送り込む側の大人たちも不快な顔をしている。

そして大学でも企業でも同様…となれば悲惨であるが、実はそうでもない。さすがに人間ここらでアホらしくなるのであろうか、それともずっとアホらしさに気付いていた人間たちが大人になってちょっとずつ自分で行動できるようになるのであろうか。当然存在するはずの「みんなが楽しい」という選択肢を求め始める人々がハッキリ区別できるようになる。

しかし、いうまでもなく、「みんなが楽しい」ためにはボーッとしていてもダメで、みんながそれなりに働かねばならない。ところが、これは「みんな」がそう思わないと実現しない。一部の人がキチンと働くと、そこに皺寄せが行き、その人たちを押しつぶしてしまう。ありますでしょ、そういう職場。

そういう事情で、楽しく生きたい人がいても、それが「みんな」でない限り、なかなか難しいのですな。盲目的な愚かしさの力は暴力的に強い。

だからこそ、みんなで「いち抜けた」すればよろしいのであります。みんな抜ける。みんなグレる。

心ある人だけが抜けてもダメである。そうじゃない人だけが残るもん。目下の日本を見よ。首相という地位は誰がやっても不快、こんな国が楽しいはずがないではないか。

特に職場・団体なんかで「おまえなんかより大きな、大事なものが優先なんだ」という空気がドーンと存在している場所があれば、真っ先に抜ける。人間が集まっているんなら、一人一人の人間より優先されるものなんぞ、あるはずがないじゃないの。一人一人が不快なら、そこに幸福は存在しない。

みんなで抜ければ良いのである。そうすれば「一人一人の人間より大きくて大事なものがある」「そのために不快を耐える」といった幻想が消える。後に残るのはうまい酒とか、まぁそういうことになりますわな。別に能天気な発想ではない。現に、お金を追い回し安いものを追い回した揚げ句、有害な食品が流通しているし、お金を追い回し安いものを追い回して米国経済は破綻しているではないか。盲目的な愚かしさの力は暴力的に強いのだ。愚かしい「痛み分け」に付き合うと危険である。「いち抜けた」して縁を切るのが一番なのであります。

自己紹介

自分の写真
日本生まれ、日本育ち…だが、オーストラリアのクイーンズランド大学で修行してMA(言語学・英文法専攻)。 日本に戻ってから、英会話産業の社員になったり、翻訳・通訳をやったり、大学の英語講師をしたりしつつ、「世の中から降りた楽しい人生」を実践中…のはず。