2008年7月17日木曜日

近鉄電車でボンヤリと

林檎社の iPhone G3 は発売以後3日で100万台を売ったそうである。よくまぁそんなにたくさん作っておけたねぇ。もちろん、この度はケータイ大好き日本人マーケットでも売り始めたのだから、気合いが入っていたのかも知れない。

こういう新しいオモチャが出現すると気になる気になる。っつーか、誰でも新しいオモチャは好きじゃわな。某英会話企業に勤務していた時、短期間ながら携帯電話を持たされた悪い経験があるのも一因で「あれはイヤですな」という結論が心身の隅々まで行き渡っているけれど、iPhone はなかなか楽しいオモチャだと思う。うふふふ。

しかし、オモチャ本体は良いとしても、「携帯電話」は料金がよくわからない。聞くところでは、日本の携帯市場における料金の情報提供方法は(いわゆる普通の先進諸国平均で言うと)違法レベルだそうである。すなわち、「月に○○円です」という表示があっても、結局のところその○○円を払うことにはならないという詐欺的表示がまかり通っており、「じゃぁ結局のところいくらなのか」と尋ねると、「料金体系の詳細」というカフカもビックリの不思議不条理世界に付き合わねばならない。キチンと正直な商売をしている感じがしないわけですな。

事実、この度の iPhone G3 にせよ、ソフトバンクの店員が「iPhone は△△プランでないとダメです」という虚偽の主張をして、高い料金設定の△△プランを売りつけていたケースが次々に明らかになっている。こうなりゃ完全に詐欺ですがな。まぁ、かつて街角でモデムを配布しながらブロードバンドの押し売りをしていた会社なんだから仕方ないと言わねばならないのだろうか。こんな場所じゃ、楽しいオモチャも大変だな。

ここでフッと思い出す。米国でiPhoneが発売された当初、「こりゃ楽しい。このままで電話機能がないやつが欲しい」という声があちこちで上がった。要するに、このオモチャは楽しい、だから携帯会社に悩まされたくないというのである。音楽も聞けるし動画も見られるiPodである。無線でインターネットに接続してサイトを見ることができる。メールの送受信もできる。iTunes音楽店に行って音楽を買うこともできる。もうこれで良い、というわけだ。

そうしたら、まったくその通りの iPod touch という製品が静かに出現した。電話機能と写真撮影機能がない点を除くと、要するに同じオモチャである。こうなると、どうも、こちらの方が林檎社の本命ではないかという気がする。誰も携帯会社に振り回されたくないのだから。

携帯市場そのものが悪いとは思えないものの、これは、英会話市場と同様、仮にキチンと商売をしようとする会社があっても、ガラの悪い大会社に押しのけられるという世界である(市場が飽和すると、あとはお客の奪い合いになるわけだから、そうなってきますわなぁ)。したがって、どんな会社でも、こんな世界と長期的に付き合うような企業戦略を立てたいとは思わないであろう。

およそ米国でもカナダでも携帯会社は嫌われている。そりゃ、そうだろう。「課金すべきではないサービス」と感じられているものを売っているのだから。誰かと話したければ、インターネットを介していくらでも話せるのに、どうしてわざわざ電話代を払うか。

そのインターネット接続も「課金すべきではない」と感じられている。その辺を歩き回ればいくらでも無線接続ができるもん。というわけで、インターネットサービスのプロバイダ各社も、これからは嫌われるしかない。気の毒な話だが、仕方ない。

なお、iPhone その他のオモチャが対応している GPS というやつも、嫌われるしかない。これは全然気の毒だとは思わない。何しろ GPS は米軍の持ち物である。「オレのだけど、無料で使わせてやるよ」と太っ腹を演じつつ、いつどこに誰がいるという細かい情報は一手に握っている。勝手に物事を変えたりやめたりして皆を振り回すこともできる。要するに、アメリカという国のやりたいことを凝縮したようなシロモノである。普通のアメリカ人も含め、こういうのを「良い」「便利だ」などと無邪気に喜ぶだけの人はいない。

しかし、この調子でやっていくと、楽しいオモチャであるはずのiPhoneにしてもその生産工程においては某アジアの国でひどい労働条件を生み出し…とかいう話になりそうだな。あぁそろそろ駅につく。では失礼。

2008年7月9日水曜日

ゴヤの部屋ゴッコに乗り切れず日本を見る

ゴヤは宮廷お抱えの画家であった。写真の無い当時のことであるから、それなりに肖像画の需要があったのである。「自分の死んだ後も何とか自分を残したい」という気持ちムンムンの金持ちの肖像画を次々に描く。それはどんな気分であったろうか。

ゴヤの腕前は、世界一というわけではない。うまいといえば初期ピカソの方が上手であろう。しかしゴヤの絵には何かスゴイものが噴き出していることが多い。それが何なのかと言われてもよくわからない。本人にもわからなかったであろう。ただ、描くと恐るべき何かが出るのであろう。

やがてゴヤも70歳を過ぎ、耳も聞こえなくなる。で、とある家に引っ越し、その家の壁に絵を描き始める。何しろ自宅の壁に直接描くのだから、見せるためのものではない。絵描きとして長年培ってきた腕前を自分のために使うんだから、贅沢な話である。一方、他人のためのサービスを考えなくても良いんだから、自分の内部のドロドロを遠慮も自制もなく表現することになり得る。

果たせるかな、ゴヤはとんでもない絵を次々に描いてしまった。昔からゴヤの絵のあちこちに噴出していた恐るべき何かがドーンと出てきたのである。しかし何しろ家の壁に塗り付けているのだから、これらの絵は文字通り門外不出であった。

やがてスッタモンダの末、これらの絵はカンバスに移され、外に出てしまう。これが「黒い絵」として知られる14枚の絵である。こうなってしまうと、もうバラバラの「絵画」になってしまう。「ゴヤが自宅の壁に塗り付けた絵」は永遠に失われたのである。

したがって、これらの絵がどのように描かれていたかについては、誰にもわからない。これらの絵の背景に田園風景みたいなものが描かれていたという話もあるが、やっぱりよくわからない。

ただ、「この絵はこの壁のこの付近に描かれていた(らしい)」ということは判明している…ことになっている。これら14枚の絵を「こんな感じで並んでいたらしいよ」ということで、ゴヤの家を模した部屋に展示することも可能である。

それを疑似的にやってくれているのが大塚美術館の「ゴヤの部屋」である。もちろん絵は複製だし、「部屋」といっても味気ない展示スペースが2つ並んでいるだけである(ゴヤの家の1階・2階を模している)。偽物もいいところだけれど、まぁそもそも本物の「黒い絵」にせよ、もはやゴヤの家には存在しないのだから、ここまで「ゴヤの部屋ゴッコ」をしてくれているだけでも良いことにしよう。

というわけで、半時間以上「ゴヤの部屋ゴッコ」に興じた。もちろんそこには殺人的スケジュールの中「大塚美術館で古代・中世の壁画等を偽物で眺める」という催しに参加したこと、新しい本を出したばかりの田川さんが「一休みしても罰は当たらないだろう」と仰ってその解説を引き受けてくれたこと、あぁ泊まった宿屋の露天風呂と鯛料理、おぉもちろん各種酒類、わはは海に入って遊んでワカメを拾ったなど様々な背景があるのだが、過密スケジュールを追っているとキリがないのでとりあえず省略。

偽物の「ゴヤの部屋」を歩き回りつつ、実物の絵と環境を想像し、できるだけそこにいるつもりになる。こりゃまさに「ゴヤの部屋ぞめき」だにゃ(「落語の「二階ぞめき」を知らない人、すみません)。

何しろそのための下準備として、同じ大塚美術館にあるグリューネヴァルトの祭壇画も見てあるのだ(こんなものの偽物まで置いてあるんだから驚きますよ)。これはフランスのコルマルまで行って実物を長時間にわたって眺めている。だから「ここの偽物がどんな感じの偽物か」ということを判断する基準になる。そりゃ偽物は偽物だから当然ガッカリするわけであるけれど、その気分を分析し、「何が欠けているか」の感覚をつかみ、それを偽物ゴヤの部屋に足せば良いわけだ。

というわけで、懸命に感覚の上での足し算を行いつつ、想像の世界に入って「ゴヤの部屋ゴッコ」を続ける。暗くて湿った感じで変な匂いがして葡萄酒はああいう味で聞こえるのはスペイン語で(でもゴヤには聞こえなくて)そんな中でこの絵の絵の具の感じはこんなので光はこんな感じで…みたいなことを皮膚感覚として「ゴッコ」するのである。普通、こういうことは子供の時にやってオシマイとなりがちだけれど、オトナになってもできるもんですよ。実際、スポーツの世界では「イメージトレーニング」(←このカタカナ何とかならんか)などといって積極的に使われるし、こういうのを実践する人が外国語の習得に成功することもわかっているし、まぁ「ゴッコ」もバカにできないのだ。

…とは言え、やはりゴッコはゴッコ。それなりの気分に浸れば浸るほど何だか空しいような気分がするのも否めない。あぁ。そもそもこの美術館全体が、世界の美術品の偽物をズラリと並べた、大規模な偽物博物館である。すべてが壮大なゴッコなのだ。

山に出かけず、箱庭を作る。英語もコンピュータも使わずに習おうとする。世界の名著も読まずにその解説を求める。実はこの種の「本物ゴッコ」は日本の得意技なのかも知れない。ならば、たまにはその得意技をやってみても良いじゃないの。そう自分に言い聞かせつつ、館内を喚きながら歩くオッサンや、キャァキャァ走り回る子供や、「何これ。なんかコワイ。いや」と言い捨ててゴヤの部屋から出ていくお客さんを眺める。あぁ日本だ。この人たちが3150円の入館料(西洋の有名美術館の基準からすればスゴイ値段)を軽々と払えるのだ。あぁ日本だ。

やれやれ、短い人生、せっかくだから日本の良いところを味わいたいものだ。日本の本物をね。まずは生酒あたりからはじめますかぁ。もっとも日本酒の世界もわけのわからない偽物に満ちてますから気をつけないとね。刺身も用意して…おっと、最近は産地偽装があるんですか。やれやれ、こりゃ大変だな…。

2008年6月11日水曜日

進化の不思議か…? 確かめる必要がある

やれやれ今日の大学業務が終わった。あとはオレの時間だ。…と自分モードに戻りながら道を急ぐ。その道は軽い下り坂になっている。こりゃ楽で良い。ホイホイと歩く。

すると前方を歩いていた人がポテンと転ぶ。足首にも膝にも力が入っている様子がない。両足がフニャフニャと崩れ落ち、全身が前に倒れ、両手を地面にペタンとつけていく。両足は蛙の如きガニ股に広がる。全身がべたりと地面に向かう。屈託のない、そして情けない、完全に幼児の転び方である。

へええぇ。職場のお客さん(学生)であろうから、もう二十歳前後のはずだが、それがあんな転び方をするわけかぁ。そんなおかしな感心をしながら道を急ぐ。

やがて電車を乗り継ぎ、駅につく。やれやれ。早く帰ろう。そう思って階段を降り始める。前方ではややヒールの高い靴を履いた女性がヨタヨタと階段を降りている…と、その人は「アッ」という声を上げて倒れた。

階段を下りている最中に倒れたのだから結構大変である。ケガもあり得る。やや緊張して観察しながら少しずつ近づいた…んだけど、様子がオカシイ。

すなわち、「転倒した」と思われたその人は、その一瞬後にはグズグズと全身が崩れ落ち、足にも腰にもまったく力が入らぬままへたり込んだ姿勢でズズズズと階段を下に移動していたのだ。両手も何となく力なく身体の両脇に添えている。まったく何の抵抗もない感じである。ただ、黙って、ズズズズと下に移動していく。それは、ある意味スゴイ受け身である。

ここに至って考えた。ううむ。こりゃ、何かが起こっているぞ。

数週間前に聞いたチョムスキーのインタビューを突然思い出す。人間の進歩に関連して、「中世の教会建築なんか見て御覧なさい。もう我々にはあんなのを建てることができない」と言っていた。要するに、人間はそれぞれの時代でそれぞれのことをやっているのだ。進歩したからといって、それまでやっていたことは全部やった上で新たに何かを積み重ねるのではない。生きている時間は限られているのだから。それぞれの時代において、それぞれの人が、それぞれのことをやるしかないのだ。

あのフニャフニャとした転び方についても、「もうかつてのようにしっかり上手に転ぶ人が少なくなった。子供の頃から体を使って精いっぱい遊ぶ習慣がなくなったからねぇ」と老人のように嘆くよりは、「おぉ、流れに逆らわぬ見事な受け身を習得する人が増えている。身体能力の進歩だ。進化だ」と喜ぶべきなのかもしれない。しかし、わからない。ううむ。

少なくとも、このあたりを解明するためには、あのフニャフニャ受け身をある程度自分でも実践できるようになってみる必要があるだろう。かつて拳法の練習に精を出し、後に少しだけ柔道の練習をしたことがある我が身にとって、これはちょっと難しい。が、だからこそ、それぐらいの技を身に付けるぐらいの手間を惜しんではいかん。所詮、その手の「正しい」とされる受け身なんて、アスファルトの地面や駅の階段やハイヒールを前提としたものではない。時代も場所も変わったのだ。それなりに考えて手を打たねばならぬ。

あれほど足元に力が入らないままにフラフラと情けなく崩れ落ちるためには、よほどのアルコールが入っている必要があるな。足に来るやつなぁ…ウォッカとか、焼酎とか、あの辺だな。うむ。人類の進化に付き合うためだ。やむを得ない。実験と。いきますか。うむうむ。

2008年6月4日水曜日

陽性米国が音になったらボストン…か?

どういうわけか(←わかっててゆーな)米国の音楽・バンドは聴かないのであるが、もちろん例外もある。サミュエル・バーバーの「弦楽のためのアダージョ」を否定するのは困難だし、ジョン・ウィリアムズの映画音楽の数々も楽しめる。サイモンとガーファンクルは黄金の定番だし、ドアーズは(もちろんジム・モリソンがいた頃の話であるが)何かとんでもないものが結晶した現象であった。…でもこうやって数えるぐらいしかない。

そんな数少ない例外のひとつがボストン(Boston)である。個人的な好みはさておき、この音は取りあえず聞いておく必要がある、そういうバンドである。デビューしていきなり猛烈に売れ、じっと何年も沈黙してから2枚目を出して強烈に売れ、それからじっと何年も…というパターンで着々と音楽を作り続ける職人芸バンドである。

しかし、バンドにありがちなパターンからは逃れられないのであろうか、彼らの頂点とも言える3枚目を出した後、看板ボーカルがいなくなった。辛うじて4枚目を出したけれども、もうかつての光がないと言われ(結構良い曲もあると思うんだけどな)、次に出たのはベスト・アルバム。要するによくあるパターンですな。

ついでに言うと、このバンドの中心人物のトム・シュルツの性向・趣味により、「子牛は(かわいそうなので)食べないようにしよう」「地球・環境を守ろう」「ちなみに僕たちは菜食主義者です」という類のメッセージをドンドン宣伝するようになった。

そりゃまぁ当初から「シンセサイザー使ってません!」というのを自慢していた連中であるから(とは言え今では使ってるけどにゃ)、もともとその気はあったんだけど、それにしてもねぇ。どうしてロックで売れるとこうなっていくのかなぁ。ボブ・ゲルドフもボノもみぃんなグリーンピースの回し者みたいになっていくじゃないの。だからダメとは言わないが、何だか鼻につくのも事実なのね。派手に売れた頃の放蕩生活の反動だろうと勝手に想像している。

あれれ何の話だっけ。あぁボストンの新アルバム。これがとっくに出ていた(2002年)と知った時には驚いた。げげ。いつの間に。あと何年かは大丈夫だと思っていたのに。

見ると「アメリカ会社(Corporate America)」という興味深い(というか、それだけで何を言いたいのかある程度わかる)タイトルである。おおおぉ。アマゾン米国の消費者評などを見ると結構評判が悪いが、そんなのをあてにしてはいけない。こういうのは自分で聴くしかない。というわけで早速インターネットの魔法で入手する。

聴いてみると確かに曲の作り方が変にダサくなっていて「完成度が低い」という評は否定できないけど、良いじゃないの。これは間違いなくボストンの音ですよ。

ボストンの音楽は「愚劣なまでに単刀直入な曲作り」を究極まで磨き上げて成り立っている。歌詞も素直にして単純明快である。特に深みも何にもないが、それで良いのである。「パーティーだ、楽しい!」とか「好き!」とか「ウジウジと過去を振り返るな!」とか「さぁ進め!」とかいった素朴で肯定的なメッセージを、やはり素朴で肯定的な音に乗せる。その技量が完璧なのだ。聴く方は素直にニッコリし、あるいはホロリとし、あるいは力づけられる。それで良いのである。

ボストンが道を誤り始めているとすれば、「ちょっとうまく作ってみようかな」という作為的意図が顔を出し始めたことであろう。ちょっと「効果的」にアコースティック・ギターを使ってみようかな。ちょっと「政治的なメッセージ」を含む歌詞も書いてみようかな。ちょっと「気の利いた」遊びも入れてみようかな。…これをやり始めたのだ。もちろん、こういうのはすでに大御所がいくらでもいる。もっと言うと、こういうのは努力の問題ではなくてセンスの問題である。だからマネしても仕方ないのだが、素朴な曲を完璧に作ったあとは、どうしてもそんなことがしてみたくなるのであろう。

という経緯で、「アメリカ会社」という、確かにボストンの音なんだけどボストンらしからぬ音楽に聞こえる作品ができたものと思われる。なるほどなぁ。こりゃ失望するファンもいるだろう。

でもねぇ、何だか許せるんですよ。だって、「ちょっとうまく作ってみようかな」という作為的意図が、見事ボストン的に、すなわち単純・素朴・素直・肯定的に、聞こえているんだもん。確かに音としては完成度が落ちたかも知れない。でも、そういう問題ではない。この「アメリカ会社」は、単純・素朴・素直・肯定的に音を造り上げるというボストンの姿勢そのものである。完璧に仕上げられた作為的意図…悪くないよ。

実はもう4度ほど聴いている。もうそろそろ飽きるだろう。今までと同じである。屈託のない高品質の娯楽。ボストンはこれで良いのである。

おわかりですか。何しろボストンなんですよ。アメリカの良いところが素直に詰まった場所ですわな。MITがあり(トム・シュルツはそこの学生だった)、ハーヴァード大学があり、もうちょっと範囲を広げるとペンシルヴァニア大学もあり等々、キレイな白人的アメリカが凝縮された一帯である。英語も比較的キレイである。(最近は日本でも英語をよくご存知ないのに「アメリカ英語は嫌い」などという人が増えたが、そういう人にボストン近辺の教養人の英語を聞かせたら「これはイギリス英語でしょう」などと間違うんじゃないか。ここら辺りが「ニューイングランド」と呼ばれているのにも(歴史的経緯を越えた)理由があるのだ。)

そういう場所で良い教育を受けた白人なら、何もひねくれる必要がない。アメリカのおいしいところを享受する立場にあればこそ、お互いもののわかった人間だという信頼の上に立って、素朴な歌を完璧に作ればそれで良かった。「環境破壊について、米国政府とタバコ会社の癒着について、バカどもにもわかるように教えてあげよう」などと思う必要はなかった。にもかかわらずそういう方向に手を出し始めた。…けどやはり素朴なものしか出てこない。

ある意味これは米国のどうしようもない陽性部分の具現化である。我々は米国の陰性部分をイヤになるぐらい見せつけられている。たまには「良いところ」「逆らえないほど素直なところ」を味わうのも良いじゃないの。深みも何もないからすぐ飽きるけど、忘れちゃいけない大事なことを思い出させてくれるボストン。だから時々聴きたくなるボストン。何年かに一度、聴きたくなる頃に新ネタを出してくれるボストン。これで良いじゃないの。事実、聴いているうちに気分が陽性になった。屈託のない良質の娯楽。これがボストンですわな。

終わっても終わらなくても終わる…のか?

目下多忙と寝不足でヘロヘロでも、田川建三さんの新約聖書概論という講座には欠かさず出かける。通い始めて何年にもなるなぁ。ひょっとしたら十年ぐらいか。げげげ。時の経つのは早いものだ。

いわゆる共観福音書の話から始まったその講座も、その最終段階、すなわち「ヨハネ黙示録」の話に突入した。これは新約聖書と呼ばれる文書集の中で最後に位置する文書であり、したがってホントに最後の最後なのだ。ううむ、ついに終わるのかぁ。ある種、感無量である。

この講座を聞く前は、聖書やキリスト教について何にも知らなかった。んで、今はどうなったかというと、やっぱり何にも知らないようである。それでも「こんなに何にもわからないのかぁ。そりゃまぁ、そうだわなぁ」ということが少しわかり始めたような気はする。ような気がする。とすれば、それはそれでそれなりに大したもんだとも言えるかも知れない。と思うことにする。(なお、それほど多くを教えてくれた人をつかまえて安っぽい同僚みたいにセンセイ呼ばわりする気にはなれないのが我が商売の呪われたところであり、だから田川さんは尊敬をこめて田川さんなのである。)

およそ新約聖書に収録されている文書はわけのわからないものが多い(2000年も前に書かれたものを読んでおいそれと話が通じる方がどうかしている)。その中でもヨハネ黙示録は極め付きに奇怪な物語である(だから愚劣極まる解釈・解説の類も多い)。ある時、こういうのは静かに座って読んでもダメだと思い、部屋の中を歩き回りながら始めから最後まで一気に大声で読んだことがある。それは確か New King James 版という最善とは言えない英訳であったが、それでもなんだか限りなく渦を巻くドロドロが感じられた。「ヨハネ黙示録はドロドロ渦巻き」というのが唯一手応えのある理解であった。

『キリスト教思想への招待』を読んだのはそれから十年以上も経ってからである。この本には問題のドロドロ事情の一部が書いてある。というか、この本の最終章は丸々ヨハネ黙示録の話なのだ。その章では、この文書がいかに「そう簡単に終わらせるわけにはいかない終わりの物語」であるかが解説されている(そもそも日本語で書かれたヨハネ黙示録のマトモな解説は珍しい)。それからさらに数年経った今、これを書いた本人からこのドロドロ話がさらに詳しく聞けるのだから、面白くないわけがない。

そう簡単に終わらせるわけにはいかない物語についての話であるから、そう簡単には終わらないであろう。すなわち「新約聖書概論」講座自体、そう簡単には終わらないことになる。実際、そう簡単に終わりそうにない。新約聖書という文書の話が、そしてキリスト教という極めて奇妙にして巨大な現象の話が、そう簡単に終わるわけにはいかないのだから。

それにしても月日の経つのは早い。この種の話に首を突っ込んで何年になるのであろうか。もっとも、対象が何であれ、首を突っ込んでじっくり時間をかけて身体化するというのが我が流儀であるから、少々時間がかかるのは仕方ない。それでも生命時間には限界があるから、どんなに終わっていなくても終わりとせざるを得ない時が来る。

試験なんかでも、終了時刻になれば、終わってても終わってなくても「終わり」である。職場でも、目の前の仕事が終わってても終わってなくても終業時刻が来れば「終わり」、これが世界の常識である。要するに、生きているとは、そういうことなのだ。ダラダラ残業など、自然の摂理に反する行為である。でしょでしょでしょ。

しかしまた、そう簡単に終わらせるわけにはいかない。生きているとは、そういうことなのだ。終わる時にはアッサリ終わるに決まっているのだが、そう簡単に終わらせるわけにはいかない。これを腹の底からの実感として理解した時に限りないドロドロが生まれるのかも知れない。

そのドロドロに終わりはあるのか。これを考えないとこの話は終わらないのだが、まぁ、またの機会にしますか。今回はこれで終わり。

2008年5月21日水曜日

夏休み宣言…できるのか?

連日5時起き生活が続く。さすがに眠い。動作が鈍くなる。思考に深みや広がりがなくなる。目の前のことだけが気になる。

その代わり単調な業務ができるようになる。しかし業務のストレスは増大する。小さなことが気にかかる。夜には酒を飲む。簡単な本しか読めない。

ううむなるほど、こうして実地体験するとよくわかるなぁ。人はこうして「組織の中の歯車」としてからめ捕られていくのかぁ。あまり何も考えず、心からの満足もなく、目先の快を求めて動く。その割には目の前の幸福を喜ばず、わけのわからない大きな幸福を漠然と思い描く(もちろんそんなものは存在しない)。

ううむ、プラトンが『国家』で言っていたような話ではないか。待て待て、資本主義社会において労働者につきまとうマルクス式「疎外」(これも変な訳語だなぁ)の手触りに近いではないか。などという思考もここら辺りで力尽きてどーでもよくなり、とにかくビール飲んで寝ます明日も5時起きなんだもん。となる。ひえええぇ。

「疲れた」
「休日は寝ていたい」
「何だか面白くない」
「今日は何もしなかったような気がする」
…等々、頭の悪いオトナたちの不潔な決まり文句と思っていたが、何のことはない、自分もその中に沈み込めそうな勢いではないか。うげげげ。

とは言え、ここまでわかっているのだから、逆に手を打てばよろしいのである。すなわち、充分に睡眠をとって眠くないようにする。すると動作も機敏になる。思考に深みや広がりが生じる。目先のことばかりにとらわれない広い視野が生まれる。

単調な業務には飽きるだろうが、それはそれで好都合。もっとやるべきことが見えてくるのだ。業務のストレスも減る。

夜に飲む酒も、ストレス解消のためではなく、「おいしいから飲む」という本来の姿になる。中身のある読書も楽しめる。こういうのが人間らしい生活というものだ。

…ここまで夢想したのは良いけれど、やっぱし明日は5時起き。そいでもって、過密スケジュールに加えて翻訳を引き受けてるんだよなぁ。ああぁ。これが論文でねぇ。いつもの調子でチョイチョイと片づける類のものではなくってねぇ。ああぁ。

こうなったら夏休みモードになるしかない。というわけで、えー、すみません。もう夏休みですので。趣味にも翻訳にも没頭します。酒もおいしく飲みます。皆さんよろしく。では電車が目的地に着きましたのでこれで。

2008年5月1日木曜日

果てしなき音遊び(ヘッドフォン推奨)

たまの休日なのでボーッと座ってパラパラと雑誌をめくる。すると Portishead の新しいアルバム('Third')が紹介されている。おおおぉ。まだ生きていたか、あの絶望的電気音と暗黒ボーカル。好みかどうかはともかく、とにかく聴いてみたいな。

と思いついて立ち上がって20分後にはもう手に入っているのだからインターネットとは大したものである。んで、その翌日の出勤途上、すなわち今、こうやって聴いているわけですな。ううううむ。この絶望的電気音。この暗黒ボーカル。こういう音を作っても生きる力が残っているというのはスゴイな。

これに限らず、最近は妙なものばかり聴いている。もっとも、もともと妙なものばかり聴く傾向があるのも事実ではある。しかし、それにしても最近は妙な音が多いな…。

(↑最近のネタいくつかを38秒に押し込んだ)

いや、もう少しマトモな音もありますよ。かつてFMラジオ(←死語)からカセットテープ(←死語)に録音して何度も何度も聴いていたモンテヴェルディ「オルフェオ」(の2曲目)をついに図書館経由で手に入れた。これは公平に見て(聴いて)キレイな曲ですよ。仕事で疲れた体を引きずって帰る時なんかに聴きますと「あぁ世界は美しい。くだらぬ人間やくだらぬ事柄に気分を悪くする必要なんかない」という確信が心の底から湧き上がります。

世の中にはこういう良い曲が存在するのだから安心だ。これなら少々おかしな音を作っても大丈夫だろう。というわけで、米国イリノイ州在住のアダム君と「インターネット経由多重録音セッション」という実験を始めることにする。あっちはギター、こっちはドラムである。

(↑その手始めがこれ;轟音注意)

もちろん生身の人間が集まってセッションするのが一番面白いことに変わりはない。この度の連休を利用してやすQ兄、sin5師匠といった古顔と無茶苦茶な音を出すことになっている。またこうして音でもさらすか。ああぁ聴いても演っても楽しい音遊び。えー仕事って何のことですか。

自己紹介

自分の写真
日本生まれ、日本育ち…だが、オーストラリアのクイーンズランド大学で修行してMA(言語学・英文法専攻)。 日本に戻ってから、英会話産業の社員になったり、翻訳・通訳をやったり、大学の英語講師をしたりしつつ、「世の中から降りた楽しい人生」を実践中…のはず。