2008年10月19日日曜日

豪州のブドウ酒…アッと言う間になくなるんですけど

注文していた豪州ブドウ酒1箱が届く。

おおおおぉ…

1ダース箱の筈なのに本数が少ないなどと言ってはいけない。もちろんこんな写真を撮る頃までには何本かゴクゴクと消費されているのだ。

あとは言うことなどない。ではこれから夕食ですので失礼。わははは…

2008年10月10日金曜日

ハクションの歌なのか?

講釈師業が全開になる。自転車に乗り、あるいは電車に乗り、あるいはバスに乗り、あちこちに移動し、移動先ではギグをやる。要するに road(巡業)というやつであって、バンド屋としては当たり前の生活である。

このロードがねぇ、喉に来るんですよ。いつもおんなじ泣き言を言いたかぁないけど、この町中の空気というヤツ、やっぱし狂ってますよ。講釈師業再開1週間ちょっと経過したら、もう喉がおかしくなってきた。これ、あと何年経ったら社会問題化してくれるのであろうか。

昔は某社の牛乳に砒素が入っていたといって問題になった。今でも中国の野菜やら牛乳やらにとんでもない劇薬が残留しているといって問題になっている。こうして問題になったら、消えていく方向に向かってくれるであろう。街中のタバコの煙もずいぶん減ったではないか。この種のことは、ゆっくりと良い方向に向かっているのだと思いたい。何年か経ったら「あぁ、あの頃の街中の空気はひどかったねぇ。体を壊す人もおったわいな。そりゃ、そうだわな」という思い出話になってくれると思いたい。

そういう希望を胸に抱いても、やっぱし現行の空気の悪さがズバリ喉にくるのだからどうしようもない。げほげほ。助けて。

と思っていたら今度は何だか体が重くなってフラついて熱が出た。なんじゃこりゃ。いわゆる風邪ではないのか。喉は悪化しボロボロ状態になったぞ。あらら〜。

ここで大事を取ってしっかり体を休めるのが常識ある大人である。それでも巡業を休まずギグを続けるのがバンド屋的ロード生活である。言うまでもなく我が生活は後者である。したがって自分でもなんだかよくわからないけれど何となく電車に乗って何となく移動し、ヘロヘロ状態でペラペラと一定の芸を行う。

不定期にカッと頭が熱くなったり急にジットリと汗をかいたりしながら、とにかく声の統御に集中する。ウッカリやってるとすぐ声が出なくなるんだもん。っつーか、声の統御で精一杯。あとはもう、自分でも何が何だかわからない。

規定90分のギグを三つもやると、もう自分などというものは意識できず、フラフラとした意識があちらへユラリ、こちらへヨロリと動いているばかりである。突然クシャミが連続で出る。ああぁ。クシャミは喉に負担なのだ。やめてえぇ。フラフラ。

そんなぼんやりした意識に何度も浮かぶのが、どういうわけか swan song という英語の語句である。ヘロヘロ状態の意識に去来する。何だか全然わからない。なぜだか全然わからない。

…んでまぁ、それが終わっての移動中である今、やはりヘロヘロ状態のまんま電車に乗ってるわけですが、やっとこの swan song を考える余裕はできたわけですな。白鳥の歌。ははぁ。洒落てますなぁ。白鳥は死ぬ直前に最後の美しい歌を歌う、あれを言うのであります。転じて絶筆を意味したりもする。

しかし自分のギグがそれほど美しいとは到底思えないし、死ぬ直前だとも考えたくないぞ。そもそもこの語句が朦朧とした意識に去来していた時には意味なんて全然考えてなかった筈だし。しかしひょっとしたら無意識にそういうことを感じていたのか。げげげ。

いや待てよ。まさか。あのクシャミ。白鳥の歌〜ハクションの歌。ああああぁこれではあまりにも情けないオヤジギャグではないか。しかしひょっとしたら無意識にそういうダジャレを考えていたのか。げげげ。

わからんままに電車は鶴橋駅に到着いたします。今日はギグがもう一つ。それは白鳥の歌なのかハクションの歌なのか、あるいは両方なのか。知らん。ああぁまた連続クシャミが来る。それはダメなんだ喉が痛いんだやめてくれえぇ。フラフラと電車を降りる。

2008年9月19日金曜日

芸人の苦労とは

落語の古今亭志ん生がこんなことを言っていて面白かった。

「まぁ、やはり、何か特殊の研究会だとか、三越の落語会だとか、東宝とかいうところはやりいいですね。あとはみな大衆で、いろいろな人が来ていますからね。だから、少ない客に何するよりか、大ぜいに向くようなことをしゃべっちゃうよりしようがないのですよ。だから、芸術というものはやれませんし営業ですわね(笑)。だから、その人たちが落語がどれだけわかるかということになるのですよ。だから、きらいな人にも食べさせなければならないということになってくるから、なかなか骨になってくるね」(『志ん生芸談』84-85ページ)

おおぉ。あの志ん生と我が身を引き比べるのは気が引けるけど、まさにこれは、大学という職場で講釈師として英語を切り売りしている我が身の状況ではないか。お客さんのニーズに照らすと、どんなに自分としてがんばっても的外れとなる。だから、学問とか何とかいうものはやれませんし営業ですわね、ということになるのである。

誤解のないよう付け加えるが、もちろんお客さんの質が低いと言っているのではない(いや、確かにお客さんの質はドンドン下がっているけど、まぁそれは別問題)。志ん生だって「客が悪い」と言っているわけではない。自分がやるのは落語であり、それがわかるお客がいないとシンドイねと言っているのである。

思えば数年の苦労の後、もう大学の講師は耐えられないと思い、やめようと思った期限が2003年であった(つまり「2003年にはやめるから」と思ってがんばったわけね)。ところが2003年の暮れにiBookとKeynote(プレゼンソフト)を手に入れ、「ちょっと話の練習をしよう」と思い、講師じゃなくて講釈師なら良いだろうとダラダラ続けてみることにした。

それからまた数年。「なかなか骨になってくるね」…志ん生の言葉が沁みる。

実のところ、翻訳業でも何でも同じような事情は当てはまる。要するに芸人職人の類は常にお客さんのニーズとずれるのだ。「自分の好きなこと」とやらをやらしてもらってるんだから、それぐらいは仕方ない。ただ、噺家とか講釈師(講師)となると眼の前のお客さんが多いので、その分ねぇ…。

先人はどうしていたのであろうか、気になってくる。日本における英語学で出色の人物といえば、まず市河三喜である。この人の『英語学』序文には、英語研究分野の文献を紹介する講座をやってみたがあまり成功しなかったという話のあと、こうある。

「…またいろいろな書き足しをして読者の興味をつなぐように努めた。…この書を読んでそこに紹介された碩学先輩の業績の一端に接し、さらに多くを原著について求めようとする心が起らない読者は、もっと興味ある学問なり仕事なりを他の方面に見出すべきであろう」

できるだけサービスはしたけど、これ以上は付き合いきれません、という気持ちが伝わってくる。これが書かれたのは昭和11年(1936年)である。読むと確かに楽しく面白い本である。が、やはりこういう一文を記さずにはおれなかったのであろう。

それより3年前、 Bloomfield の Language という本が出ている。当時の米国言語学におけるバイブルとされた有名な本である。そりゃ、そうでしょう。メチャメチャ面白いもん。まず話題が広い。観察が正確である。えーかげんな話も混ざっているかもしれないが、それはちゃんと調べればよろしい(これが可能であるということは、キチンと書いてあるということである)。「そういえば、ふざけてこんな言い方をすることがあるね」という実例があちこちに出てくる。要するに、ブルームフィールドさんはかなり楽しんでこの本を書いている。したがって読み手も楽しい。

…いや待てよ。っつーか、ブルームフィールドさんも、かなりサービスしているのではないか。もちろん、大学で講義したり本を書いたりするに当たっては、「ちょっと楽しい話も入れておかないとね」という配慮も必須であろう。それがどの程度のものであったのかは、わからない。でも、ある程度は志ん生の言葉が当てはまっていたのかもしれない。そんな気がする。

同じ年に出た Jespersen の Essentials of English Grammar もなかなかに楽しい。これは、すでに出版した(あるいは出版しつつある)自分の本に基づいた圧縮版ということになっている。とゆーか、自分の本をここまで丸写しすることもなかろうに(例えばこの人、今なら喜んでコピー&ペーストしていたであろう)。しかしまぁ、自分が10年前に書いたものを丸写しできるというのは、それだけ自分の書いたものが気に入っているとも言えるわけで、まぁ大したことである。

この人は別に膨大な文法書を書いている(というか、書きつつあった)。わざわざ(時には丸写ししつつ)一冊にまとめた文法書を書く必要はどこから来たのか。その序文には「自分の大きな著作を是非とも一冊の文法書にまとめて欲しいと請われ、何年も躊躇した後、出すことにした」という意味のことが書いてある。やりたいことは巨大な英文法書の完成であるが、ニーズとしては簡略な一冊本なので、それに応じたという図が見える。もちろん、それがダメというわけではない。それが職人であり、芸人というものなのだろう。

その仕事なり芸なりが達者であれば、良いものが生まれる。この一冊本の文法書にせよ、何かを「わからせよう」とか「伝えよう」とか「まとめよう」とか「読んでもらおう」とかいう暑苦しい意図がまるで感じられない。非常にわかりやすくまとまった、読みたくなるものができ上がっている。だからみんな読む。時が経っても読みつがれる。だから古典ということになる。ううむ、大したものですな。

しかしまた、その種の話が通じないと、文字通り「話にならない」ことになる。難しいものですな。ああぁ、来週から講釈師業の再開かぁ…。せめて少しでも先人にあやかりたいと願うのであるが、時には心身ともに疲れ果て、特に精神と神経が疲れ果て、「○○大先生、ちょっとこのお客さんの前でやってみてくださいよ」と言いたくなるときもある。そんな気分になったときには、その○○先生の本でも開く。すると以上のような感慨を持つのであった。

「いち抜けた」の勧め

この国の際立った特徴に「痛み分け」がある。具体的には、シンドイことやイヤな気分をみんなで共有することで和を保つという方法である。

長い歴史の中で発生し培われてきたものであろうから、馬鹿馬鹿しいと一蹴するつもりはない。しかしまぁ、見れば見るほど「悪いけど、いち抜〜けた♪」と一声発して身を引きたくなるし、事実そうさせていただいている。とゆーか、みんなでそうすりゃ良いんじゃないの。そしたら誰も痛がらずに済むでしょ。

見よ、近所の小学校では今日も運動会の練習に余念がない。当日に事故が発生しないよう競技の練習を通じて体の動かし方を指導するのかと思ったら、さにあらず。ただただ愚かしくやかましい音楽に合わせて行進したりグルグル回ったりするのみである。そして、「○○組の勝ちぃ!」という指導者の声に続けて「やったぁ!」と唱和する練習、これを繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し行うのである。もちろんその指導者は、ひたすらヒステリックに喚きまくるだけの女教師である。

早い話、専制国家におけるマスゲームの練習である。誰も本質的な動機を体感していない。誰も楽しんでいない。盲目的な愚かしさに引っ張られ、体の動かし方も頭の使い方もわからぬまま、みんなでイヤな気持ちをわけあっている図である。これを6年間お続けになった後、見事に役に立たない12〜13歳人口がポコポコ流出する仕組みである。

(人間が集まってこの種の全体主義的行動を取るようになる、それは指導者の知性が低く、教育レベルも下がったときである。学校でも会社でも宗教団体でも国家でもその例は見られるが、まぁ今の世の中なら「アメリカ」と一言申し上げれば一発で通じるであろうか。)

もちろん、その人口を吸い込む中学校でも高校でも同様である。誰も本質を体感せず、誰も楽しまない環境で、納得できない全体主義が進行する。その暴力から一瞬身をかわした一時を「楽しい思い出」と称して胸に記録することもあろうが、それはアウシュビッツ収容所における美談の類である。とりあえず巨大な不快が前提となっており、それを皆で我慢する。

ちなみに、こういう学校で否を唱えてグレたりする人間は、○○スクールというような「厳しく鍛えてくれるところ」に収容される可能性が高い。つまり、「おまえだけ不快から逃げるとは何事だ」というわけで、強制的に不快が割り当てられるわけである。もちろん、○○スクールに送り込む側の大人たちも不快な顔をしている。

そして大学でも企業でも同様…となれば悲惨であるが、実はそうでもない。さすがに人間ここらでアホらしくなるのであろうか、それともずっとアホらしさに気付いていた人間たちが大人になってちょっとずつ自分で行動できるようになるのであろうか。当然存在するはずの「みんなが楽しい」という選択肢を求め始める人々がハッキリ区別できるようになる。

しかし、いうまでもなく、「みんなが楽しい」ためにはボーッとしていてもダメで、みんながそれなりに働かねばならない。ところが、これは「みんな」がそう思わないと実現しない。一部の人がキチンと働くと、そこに皺寄せが行き、その人たちを押しつぶしてしまう。ありますでしょ、そういう職場。

そういう事情で、楽しく生きたい人がいても、それが「みんな」でない限り、なかなか難しいのですな。盲目的な愚かしさの力は暴力的に強い。

だからこそ、みんなで「いち抜けた」すればよろしいのであります。みんな抜ける。みんなグレる。

心ある人だけが抜けてもダメである。そうじゃない人だけが残るもん。目下の日本を見よ。首相という地位は誰がやっても不快、こんな国が楽しいはずがないではないか。

特に職場・団体なんかで「おまえなんかより大きな、大事なものが優先なんだ」という空気がドーンと存在している場所があれば、真っ先に抜ける。人間が集まっているんなら、一人一人の人間より優先されるものなんぞ、あるはずがないじゃないの。一人一人が不快なら、そこに幸福は存在しない。

みんなで抜ければ良いのである。そうすれば「一人一人の人間より大きくて大事なものがある」「そのために不快を耐える」といった幻想が消える。後に残るのはうまい酒とか、まぁそういうことになりますわな。別に能天気な発想ではない。現に、お金を追い回し安いものを追い回した揚げ句、有害な食品が流通しているし、お金を追い回し安いものを追い回して米国経済は破綻しているではないか。盲目的な愚かしさの力は暴力的に強いのだ。愚かしい「痛み分け」に付き合うと危険である。「いち抜けた」して縁を切るのが一番なのであります。

2008年9月16日火曜日

帰ってきたOED2

やれやれ、やっとOED2、すなわち「オックスフォード英語辞典第2版」がとりあえず見られるようになった。こんなことに何時間も使ってしまってアホらしかったわいな。というわけで、ちょいと覚書をしておくのである。

その昔、ウィンドウズ対応のCD-ROM版OEDを買い求めた(高かったなぁ…)。ところが世の中はあれよあれよと変わる。アッと言う間にアップル社製のコンピュータが入手しやすくなった(ついでにCD-ROM版OEDの値段も下がりやがったぞ)。しばらくの間はウィンドウズ機とマック機を並行して使っていたが、OSXが 10.2 になったあたりで「こりゃ勝負あった」と判断してマックに乗り換えた。するとOEDが使えない…。

(その後、OED初版を古本で頂く機会があった。ありがたいことである。これなら書棚から取り出して読むことができる。しかし、自分で買った第2版が読めないってのは…)

もちろん、OSXの上でウィンドウズを走らせる手段はある。特にインテルマックであればウィンドウズが堂々と走る。あるいは疑似的にウィンドウズ空間をつくることもできる(その名もQという無料ソフトもある)。しかし結局ウィンドウズOSを手に入れてインストールすることになるし、それにはお金がかかるし、仮にお金がかからない方法を見つけたとしても(←オイオイ)、何かと容量は食うし、いろいろ面倒である。OEDだけのために、ねぇ…

んで、どうするか。実は、OEDのソフトはウィンドウズ3.1でも走るのである。ウィンドウズ3.1というのは、DOS上で走るプログラムである。ということは、

(1)Mac OS X 上でDOSをやってくれれば良い
(2)しかる後、その上にウィンドウズ3.1 を走らせれば
(3a)その上でOED2が走る
(3b)っつーか、懐かしの Win 3.1 アプリがいろいろ走るよ…

実はこれを思いついたのは、今朝方シャワーを浴びていたときであった。何でこんなことに気がつかなかったのだろう。

(1)Mac OS X で 擬似 DOS を走らせてくれるのが、DOSBoxという無料ソフトである。こここんなものがあったのか。これがまた、ちゃんと走るのだ。ちょっとCPU食うけど。MacBookの画面にDOSプロンプトが浮かぶのを見るのは、なんとも不思議な感じである。20年ほど時間を逆行してコマンドを打ち込むのはもっと不思議な気分である。

(2)ウィンドウズ3.1は、Abandonware(捨てられたアプリ類)を集めた場所、例えば公の場所ならこういうところ(無料だけど登録が必要)などで手に入る。っつーか、そのへんでフロッピーが埃かぶってる場合も多いんじゃないでしょうか。

MacBookの上で Windows 3.1 がインストールされていくのは不思議な光景である。


っつーか、あの懐かしい3.1をマック上で目にするのはもっと不思議。


(3)CD-ROM版OED2は、基本的にプログラムとデータの2つから成立している。手元にあるプログラムは1.13というヴァージョンだけれど、実は昔のヴァージョン(1.10か1.11)が便利(これも上記の場所で手に入る)。なぜならば、これらのヴァージョンは、データCD-ROMのファイルをハードディスクにホイと載せて使えるようになっているからである。そりゃこっちの方が便利ですな。何しろ自分の金で買ったOED2を自分で使うんだから構うまい。

以上の基本ラインに添って半日格闘した揚げ句、ついに:


自分で購入したOED2がやっと見られるようになった。便利なんだか不便なんだかわからん世の中だが、やれやれである。さぁ大いに勉強しよう。

…と思ったら、やはり懐かしのWindows 3.1 のゲームとか時計とか走らせて遊んでしまうのである。誠にコンピュータは、生産性を高めるとは言えませんな…

2008年8月30日土曜日

音を聴く時間

やっと涼しくなってきたかと思えば、まもなく夏休みも終わりである。ああぁ。早いものだ。5時起きも排気ガスも電車通勤もタバコや化粧の臭気も忘れていたが、これがまた…ああぁ考えないようにしよう。楽しく充実した毎日を送りたいですからな。うむうむ。

とか思いながら、ドサ回り仕事用 MacBook の iTunesを眺める。こちらには語学関係とかネット放送番組とか通勤時に聴きたい曲とか新着ネタとかが入っている…が、移動時用の iPod nano に合わせてファイルを7ギガ程度までに抑える必要があるので、こうして休みの間に取捨選択を行なうのである。

で、その前に、さりげなく再生回数の多い曲を見るとですね、一番多いのが Gary Jules with Michael Andrews の 'Mad World' の20回。3分ちょいの曲であるが、合わせて1時間以上聴いていることになる。ひええぇ。

それから Porcupine Tree の 'The Sound Of Muzak' が11回(計55分)。Peter Gabriel の 'Whole Thing' が9回(計50分)。Boston の 'Corporate America' が8回(計37分)。再生を途中で止めるとカウントされないので、実際にはもっと聴いているであろう。へえぇ。忙しいとか言いながら、歩きながら結構聴いてるのねぇ。

待て待て。回数は少なくても、もっと長い曲があるぞ。例えばグールドの「ゴルドベルク変奏曲」は5回(計4時間以上)、金聖響指揮のベートーヴェン交響曲第2番は2回ほど聴いている(計65分)。シェーンベルクの「浄夜」は2回(計1時間)。

本も耳で何冊か読んだ。Orwell の '1984'(12時間)、Stephen Colbert の 'I am America (and So Can You!)'(3.5時間)、Al Franken の 'Lies and the Lying Liars Who Tell Them'(10時間)、同じく 'The Truth (With Jokes)'(10時間)なんかを歩きながら(あるいは電車に乗りながら)読んだ。これに加えて毎日2〜3時間(以上?)のネット放送は聞いている。

こうして考えると、ずいぶんiPodのお世話になっておるなぁ。っつーか、それでも「好きな音楽をもっと聴きたい」と思っている。フツーに本を読む時間ももっと欲しい。ああぁ。いっぺん仕事を辞めて、2年ぐらい音楽三昧・読書三昧で暮らしてみたいものだ。

…などと夢想しつつ、メインのiTunes(目下120ギガほどある;助けて)から音楽を選ぶ。これはこれで楽しい作業である。ああぁ楽しい。そして次の休暇が楽しみだ…。

ドラム叩きの休日

朝起きて淀川のほとりを走る。こういう健康な日課が復活するのであるから、夏休みとはありがたいものである。…と思った途端に二日酔いで走れない日が続いたりするのだが、それはまた別の話。

わずか3キロちょいの道程ではあるのだが、走るときにはナイキ+iPodを利用する。走った距離等々を勝手に記録してくれるし、何か聴きながら走れるので退屈しない。

このナイキ+iPodで便利な機能に powersong というのがある。その瞬間に何を聴いていようと、とにかくiPodの真ん中のボタンをグッと長押しすると、あらかじめ選んでおいた1曲に切り替わるのである。その曲が終わると、また先ほどまで聴いていたものの続きに戻る。普通はポッド放送でニュース番組なんか聴きながら走っているので、この「パワーソング」機能でパッと音楽に切り替わると新鮮である。

この「パワーソング」に選ぶ曲はコロコロ変わる。近頃気に入っているのは Peter Gabriel の 'Whole Thing' である(これは最近出た Big Blue Ball というアルバムに入っております)。その他、Sa Ding Ding の 'Alive' とか、浪速エクスプレスの 'Vacuum Vox' なんかも気分よく走れる。

(これらの曲をご存知の方は、「ん? そんな曲でどうやって走るんだ?」とお思いになるかもしれない。実はですね、その話なんですよ。)

さて、そんなのでペースを上げて走りながら気がついた。自分にとって、音楽のテンポと走るテンポは全く別物なのだ。聴こえてくる音楽のテンポは全く無視している。ノリないしうねりの良い音楽であればバンバン走れる。これには自分でもちょっと驚いた。

世の中の多くの人たちは「自分の走るテンポに合うテンポの音楽」を選んでリストを作っている。色々な曲のテンポを明示した「走るときの音楽を選ぶためのサイト」まで存在する。そういえば軍隊だって運動会の生徒だって行進曲に合わせて歩くではないか。パーティなんかでは音楽に合わせて踊るではないか。あれが普通なのだ。皆さん、音楽に合わせて動くのだ。

'Whole Thing' を聴きつつ、走るテンポを徐々に上げながら考えた。こうやって自分の走るテンポを上げていったりできるのだから、聴こえている曲のテンポには合わせとらん、っつーか完全に無視してるわなぁ。しかし、曲のノリ・うねりに合わせてる感じはあるわなぁ。ははぁ。やっぱ、ドラマーってことか。

ドラマーはリズムに合わせない。これは、ドラムを叩かない人にはあまり知られていない事実かもしれない。

もちろん、「ハイこれに合わせてね」とリズムを提示すれば上手に合わせてくれるであろう。しかし、実のところ、それはドラマーの仕事ではない。ドラマーの役割は、その場のうねりを引き取って、それを表出することにある。

これが習い性となると、日常生活にも持ち込まれる。とゆーか、「そういう人」がドラマーになるわけである。何かにカッチリ焦点を合わせ、それに反応するという行動は苦手である。むしろ、「その場にある何かを取り込んで何らかの焦点を造り出してそれに自分も合わせようとする」というややこしい行動をとる。

だからドラマーには「変な感じの人」が多くなる。目は相手を見ているようで見ていないようだし、何が欲しいのがハッキリしないし、それでいて何か探しているような物欲しそうな顔をしながら結局その場のテンポを引っ張ってしまうということになる。いるでしょ、そういう人。ドラマーなのですよ。

ずいぶん前に読んだ山下洋輔の本に「ドラム叩きはガイキチ」という小文があった。要するにドラマーはオカシイという、そのものズバリの内容である。

一昨年だったか、当時一緒にバンドをやっていた奴とばんばんビールを飲んでいたときもそんな話になった。そいつは「ドラマーはみんな狂ってる(mental)。これまでに何人も何人もドラマーを見たし一緒にやったけど、例外なし。みんな狂ってる」と断言していた。当のドラマーを相手に言うのだから大したものだが、まぁ多くのバンド経験の上で語っているのだからそれなりに拝聴の値打ちはあろう。

そう思ってふと振り返ると、もう20年以上ドラムを叩いている。もちろん中断もしているし、何より最近はめっきり練習もしていないし、大して上手くもない。しかし、どうやらそういう問題でもないらしい。世界から乖離して世界を見つつ世界を造り、その世界から乖離して…という無限グルグル運動においてリズムとうねりを生み出す。そういう矛盾した在り方が習い性となっているヤツはみんなドラマーなのだ。

そんなことを考えながら走ってシャワーを浴びて仕事にかかる。でもすぐ飽きて YouTubeでカール・パーマーのインタビュー(珍しい!ファン必見!)を見る。この人がこんなに長く自分の考えを語るのを初めて見た。結構上手にしゃべれる人である。相手の質問はキチンと聞くし、自分のやっていることについて素直に語れるし、いわゆるロック音楽屋にしては語彙が豊富だし、全体に流れが良い。

ところが何かが変なのである。目が泳ぐ。時として変に自分の世界に入る。自分の好みは語らない。自分のやっている音楽について奇妙なまでに客観的な位置づけを行う。あぁ。これは完全にドラマーだ。

この調子でギター弾きの性格、ベース弾きの性格等々を続けたいような気もするが、何しろ休日ですからな。本日はこれまで。

自己紹介

自分の写真
日本生まれ、日本育ち…だが、オーストラリアのクイーンズランド大学で修行してMA(言語学・英文法専攻)。 日本に戻ってから、英会話産業の社員になったり、翻訳・通訳をやったり、大学の英語講師をしたりしつつ、「世の中から降りた楽しい人生」を実践中…のはず。