2009年7月22日水曜日

皆既日食とくれば…

これしか、ないでしょ。


朝からこの曲をバンバンかけたのであった…

2009年6月28日日曜日

遠い異国の物語…なのか?

マイケル・ジャクソン(もちろん仲間内ではジャイケル・マクソンと呼ぶ)氏の訃報、そしてその関連ニュースを次々に目にする。ううむ、ああいう人物となると、ゆっくり静かに死ぬこともできないんですなぁ。

いや本人は死んでるんだから気にしないでしょう…とも言い切れない。大々的なコンサートを控えていたこともあり、死亡状況によっては保険金がおりるかおりないかの瀬戸際であるからして、検死結果をめぐる騒ぎが続いている。ああいう人物ともなると、ゆっくり死なしておいてくれないのである。いささか気の毒でありますな。

英語系メディアだけかと思ったら、日本語のメディアでも結構話題にしている。へえぇと思っていくつかの記事を見る。

この毎日新聞の記事はちょっと面白い。その前日リハーサル現場にいたフィリップス氏(行われるはずだったコンサートの興行社幹部)について、「約3時間ステージに立ったマイケルさんは、20歳のダンサーたちと同じかそれ以上の巧みなダンスを披露し、「観客をとりこにし、偉大に見えた」と振り返った」としている。「偉大に見えた」はオカシイだろうと思ってもとのセリフを調べてみると(例えばこういうところで確認できる)案の定 'He looked great'(元気な様子だった)だった。あんなに元気そうだったのに、その翌日に死ぬなんて、ということである(さらに深読みすれば「だから保険金はおりて当然だ」という話でもある)。今さらこの種の誤訳をあげつらってどうこう言うつもりはない。英語世界のニュースが日本語の世界に入るときは大概こんなもんである。こんなレベルのニュースがまかり通るほど、日本というシステムは恐ろしいほど閉じたシステムなのだ。

この読売新聞の記事は別の意味で面白い。「マイケル・ジャクソンの主なアルバムと代表曲」という表がついていて、そこに売上枚数が「世界/日本」と仕分けして書いてあるのだ。職場で昼食をとりつつこれを見たときは「エッ!」と声を上げてしまって口から食べ物がこぼれそうになったぞ。あの「スリラー」は世界1億500万枚、日本250万枚。「オフ・ザ・ウォール」は世界2000万枚、日本50万枚。等々。

こんなもんですかねぇ。愚にも付かぬ日本人歌手のアルバムでも何百万枚か売れてしまうんですよ。地球レベルで見るとすさまじい金持ち国の日本ですよ(特にこの辺のアルバムが売れてた頃はすごかったはず)。したがって、も〜っと日本での売上は多いかと思ったんだけどなぁ。まぁ、どのみち自分では買わない種類の音楽であるから、何とも言えんですけど。

他の日本語記事を眺めつつ「あぁこれも日本メディアにとっては、やはり遠い異国のお話なんだなぁ」と実感する。マイケル・ジャクソンなんぞ聞かない人間がこう実感するんだから、こりゃ大したものである。イランの大統領選も、ますます深刻化する人身売買の問題も、枯渇しつつある魚資源の話題も、日本語の世界では完全なるよそ事のようである。

もちろん、とりあえずは、それでよろしいのである。というか、どうしてもそうなりますわな。遠くの話は遠いのだ。当たり前といえば当たり前。…でもね、日本というシステムは、ちょっとその度が過ぎてるようでありますよ。

2009年6月19日金曜日

マーキュリーな午後を歩く

どさ回りの毎日である。電車の上では英国のテレビ番組ばかり見ている。今日は「今まで語られなかったフレディー・マーキュリー(Freddie Mercury - the Untold Story)」を見る。

これには驚きましたよ。まず出てくるクイーンの曲が片っ端からわかってしまう自分に驚く…けど、まぁこれはクイーンのファンとして当然の部類でしょうか。しかし、次々に出てくる関係者が語るフレディ・マーキュリーという人物には、「ううむこのペルシャ人英国人、非凡な奴」と感心させられる。

そしてまた、この番組の作りがどうしようもなく英国調というか島国調というか浪花節なのだ。淡々と事実を並べていくドキュメンタリーなんだけど、それだけに意外なところで不覚にも涙が出ますよ。ああああぁ。いやホンマ、もし見てなかったら、見てご覧なさい。YouTube でも一応見られるし(バラバラに分割されてるけど)。

番組を見終わり、電車を降りる。ホントなら職場に直行するところだけど、ちょいと時間に余裕があるので街を歩く。もちろんクイーンをガンガン聞きながらである。やや、今度行こうと思っていたパブも見つけたぞ。生きている間にビールもバンバン飲まなきゃね。あぁ今日は桜桃忌か。太宰治も最近売れているらしい。不思議な話だ。何だか高校生の頃の自分に戻ったような気分になって歩く。なかなかオトナにはなれないようである。


2009年5月10日日曜日

翻訳すると…

翻訳すると、変わっちゃう。これは誰もが知ってるつもりのことである。例えば日本の「箸」を英語にして chopsticks とか hashi とか表現した途端に別物になってしまう。あるいは、より正確に言うと、その英語を理解する人が理解している内容はなかなか「箸」にはなってくれない。

ひょんなことから英語の世界で「(日本の)スシ」とか「(日本の)ハシ」とか思っておられるものの画像を集めて見た:

ご覧の通り、「ハシ」が流麗に配置されている。もちろん、日本の箸としてはお行儀の悪いことこの上ない話である。これを見て失笑する日本人がいてもおかしくはない。が、もはや「ハシ」となってしまったのだからやむを得ない。別物なのである。

当然ながら、こういうのはお互い様である。西洋料理で使われるナイフやフォークなども、ひとたび「ナイフ」「フォーク」「スプーン」等になってしまったからには、もう別物である。それどころか、日本の「洋食」は箸で食べることもある。これを見て首をかしげる西洋人がいてもおかしくはない。が、もはや「フォーク」であり「スプーン」であり「洋食」なのだから、ある程度やむを得ない。もはや別物なのだ。

日本に住み日本語で生活しながら英語をネタにして細々と暮らしていると、本当に毎日毎日この種のズレを観察することになる。それを指摘すると不機嫌を買うことも多いので黙っているのであるが、それなりに指摘しないと商売にならない。難しいんですよ。そりゃストレスもたまりますわな。そういうわけで、今夕はビールと自家製梅酒と葡萄酒が用意してあるのでございます。さあぁて、どれからいこうかな…

2009年4月29日水曜日

決して好みの曲ではなかったけれど…

こんなに良い演奏は珍しい。

あちこちの国の路上で演奏している無名の人々を次々に回り、録音を重ねていったそうである。道具はラップトップとマイクとヘッドフォン(とスピーカかな)。

どいつもこいつも実力あるわぁ。
ううむ。いっちょ、路上演奏やってみようか…


2009年4月19日日曜日

不思議インターネット世界

こりゃ不思議。打ち込んだ文字が「逆さま」になる(文字の種類にもよる)。コピペしても同じ。

ケイト・ブッシュのファンなら必見。この人のビデオの変な場面ばかり見ることができる。

普通に再生しても逆回し再生しても同一になるビデオクリップを作った人もいる。こりゃ大変だったはず。


レコードプレーヤーが懐かしいのはネコも同じ。



高画質でスローモーションしてみると…(全画面表示推奨)

2009年3月2日月曜日

鬼は外、エイリアンは内

たまの休日はありがたいものである。ぜひ有効に利用して世のため人のためになる活動に勤しまねばならぬ。というわけで、「エイリアンの一気見」を敢行する。すなわち、'Alien', 'Aliens', 'Alien 3', 'Alien Resurrection' という「エイリアン・ボックス・セット」を一気に見てしまうという、この上なくバカバカしい、そして眼球の疲労する乱行に挑戦したわけである。

ウワサによると、1作目は古典的傑作、2作目は駄作、3作目はダメダメ、4作目はもうムチャクチャというのであったが、果たせるかな、ほぼその通りであった。まぁ見ているうちにだんだんとエイリアンの姿に慣れてきて、それに反比例するかのように筋書きがどうでもよくなってきて、しまいにはもう何が何だかわかんなくなってくるんだけどね。

それにしても一番最初の作品、非常に良くできている。大道具・小道具の細部に至るまで気を使ってあることがよくわかる。いや、何といってもジェリー・ゴールドスミスの音楽がすごい。無調のスコアがこれほど狂おしく深く美しいというのは大したことである。メイン・タイトルなど、短いながらも、公平に見て(聴いて?)ベルクの「ヴァイオリン協奏曲」やシェーンベルクの「浄夜」などと同列に並べても良い作品ではないかとさえ思われる。ウソだと思ったらちょっと聴いてごらんなさい。「ははぁ、まぁ、なるほどねぇ」ぐらいには思っていただけるはずである。

この映画については実に多くが語られている。フロイト式解釈とやらも根強い。エイリアンなる怪物は男根の象徴であって云々という、ある意味わかりやすいけどやっぱりピンと来ない(けど「ピンと来ないのはあなたの抑圧によるのだ」とくるかな)という、いつものパターンである。

まぁねえ。もちろんフロイト式がダメとは言わない。実際フロイトさんの当時はヒステリー患者を始めとしてたくさんの人を治したんでしょう。フロイトの物の見方も我々に多くを気付かせてくれる。その限りにおいて全然文句は言わない。でもねぇ、今やヴィクトリア朝的におしとやかで抑圧的な時代でもないし、何でもかんでも性的抑圧がどうのこうのって疲れますよ。

(特に現代日本においては、電車の吊り広告一つとってみても、はしたないのを通り越して非現実的なレベルに達しておりますでしょ。日本に来る西洋人の皆さんなんか、これを一目見て目を回すことになってるんですから。抑圧と言われてもねぇ…。ましてこっちは学生時代からユングに染まっているせいか、フロイト流がある程度を超えると「違うでしょ」と反応する。)

というわけで、エイリアンって怪物が出てくるんだから、そりゃやっぱし怪物でしょう。んで、怖い怪物ってのは、我々自身が心のどこかに抱えているから怖いわけですな。あるいは、より正確には、「心の中に抱えてるんだけど、それを認めたくないから見えないことにしている、だから非定形の「よくわからない物」になっている」ことが怪物性を生むということになりましょうか。何しろこの線で素直に考えれば、要するにこのエイリアン、我々の中の怪物なのだ。事実、映画の筋書きにおいては、文字通りまさに我々の中に巣くい、そこから飛び出して大暴れする。

エイリアンが我々の中に巣くう経緯もいやぁ〜な感じですよ。すなわち、人間の身体を宿主として生まれ、餌として育つ。つまり、別に殺意や敵意があるわけではないのだ。ただ、自分たちが繁殖するために人間を食べ物として使う。

普通の怪物モノであれば、我々とは完全に別のところに存在する怪物が、暴力的攻撃性をもってこちらに襲いかかってくる。だからこちらも暴力的に応戦する。あるいはヒーローが登場して怪物を退治したりする。ちゃんちゃん♪で終わる。我々は我々、怪物はあっちなのだ。

ところがエイリアンの物語を追っていると、どうしても「この怪物は自分の中にいる」と気付く。別に殺意も敵意も恨みはないけれど、自分が生きていくために相手を殺して食べる。我々が毎日のようにやっていることではないか。殺される相手にとってみれば、たまったものではないだろう。しかし生きていくというのはそういうことであって、こりゃもう仕方ない。

「こりゃもう仕方ない」とわかっているからこそ、見ていていやぁな感じがするわけであろう。その怪物は圧倒的に強い。妙に知能が高い。そいつに殺される。食われる。言葉は通じない。というか、「俺が生きるためにアンタを食うよ」という相手に対して理屈を並べても仕方ないから、仮に言葉が通じても無駄なのだ。

恨みっこなしで殺され食われる。これほど不気味な話があろうか。その怪物的行為を現実世界において自分も行っている。これほど不気味な話があろうか。この不気味二重構造の上に「エイリアン」という映画は乗っかっている。

なお、2作目になると、このエイリアンがわんさと大量に出てきて大活劇となる。決して知性的とは言えない米国海兵隊の面々がやられていくところが何かを語っているようだ…と言い始めるにはあまりにもあまりなB級映画になっている。3作目となると、丸腰の人間がエイリアンから走って逃げるだけという話になり、これはもう野卑なイギリス英語に興味のある人はどうぞとしか言い様がない(これはこれで楽しいけどね)。おまけの4作目となるともう怪獣モノである。

しかしまぁ、それもやむを得ない。「我々の内なる怪物」という不気味なテーマは最初に終わっちゃったのだ。すると、あとは昔ながらの「我々の外の怪物」ネタにずり落ちていくしかないのだ。するとどうしても子供向け怪獣モノになるわけである。(それはそれで楽しいけどね。)

その路線で突っ走るのがエイリアン対プレデターのシリーズである。さすがにここまで付き合う気力はないけれど、面白いことに、映画としてここまで来ると「子供に見せられないような場面」「子供に聞かせたくない言葉」は姿を消していく。つまり、名実ともにお子様向けになっているのだ。

「最初はオトナのテーマがあったけど、あとはキャラが独り歩きして子供向けになる」パターンはお馴染ですな。江戸川乱歩の怪人二十面相シリーズとか、ゴジラのシリーズとか。まぁ、そういうもんなんだろうなぁ。とか思いながら強烈に目が疲れた4本立てなのであった。目の疲れにはブルーベリーでしたっけ。まぁブドウ酒も似たようなもんでしょう。そうでしょうそうでしょう。

自己紹介

自分の写真
日本生まれ、日本育ち…だが、オーストラリアのクイーンズランド大学で修行してMA(言語学・英文法専攻)。 日本に戻ってから、英会話産業の社員になったり、翻訳・通訳をやったり、大学の英語講師をしたりしつつ、「世の中から降りた楽しい人生」を実践中…のはず。