2024年10月23日水曜日

シン・レクイエム(モーツァルト)

 いやぁ、びっくりしましたわ。こんな演奏が出てくるとは。

本来キリスト教会の典礼楽曲であるレクイエム(鎮魂曲)、それなりに退屈でも仕方ないというジャンルであります。しかし、その「本来」の意味がなくなってくると、その分だけ楽曲にエネルギーが注がれ、いろいろ名曲が出現する。

特にフォーレのレクイエムとか、よろしいですねぇ。もう何種類の演奏を何回聞いたかわからない。

キング・クリムゾンのレクイエムは、アルバム 'Beat' 収録です。いやいや、これはちょっと違う話か。でもあの演奏は絶品中の絶品ですよ。

そしてモーツァルトのレクイエムであります。昔からあまりモーツァルトは聞かない私でも、これだけは例外で、もう何種類の演奏を何回聞いたことやら。

待て待て。これについては、どこまで「モーツァルト作曲」なのか怪しいのだ。詳細がちゃんと伝わっていないこともあり、よく知らないんだけど、どうやら大筋としては:

・ある男が「死んだ妻のためのレクイエムを作ってくれ」と人を介してモーツァルトに依頼

→モーツァルト、引き受ける(死生観に感じるところある時期でもあったらしい)

→まずは報酬の半分を受け取り、作曲開始

→モーツァルト、死んでしまう

→その妻は「これじゃ残りの報酬が受け取れない」ということで関係者Aに完成を依頼

→関係者A、いろいろ頑張るが「やはり無理です」と未完成の形で返却

→その間、モーツァルトの死がバレない工夫が続く(そりゃ詳細が伝わりにくくなりますわな)

→ドサクサの中、関係者Bが何とか作り上げてしまう

→締切の一ヶ月前に納品(演奏者は練習大変やな)、残りの報酬を受け取る

→もちろん「夫のモーツァルトが最後に完成したのがこれでした」と説明

→そのために無理な説明がいろいろ必要となり、大小の「謎めいた伝説」が出現する(そりゃ詳細がわからなくなりますわな)

→しかし曲自体は有名になる(良い曲だもんねぇ)

→後の音楽史家たちは「どこまでがモーツァルトか」をめぐって議論

→近年になって突然モーツァルトの手による楽譜原稿がポロッと1ページだけ見つかったりする

→ますますワケがわからない

→様々な演奏家が種々の演奏をやり続ける

そもそも形式の定まった典礼曲であり、ハイドンのパクリというかオマージュが堂々と入っており、すぐに「それは俺のネタや」と騒ぐ著作権意識満開の現代とは時代背景も違う。どこからどこまでモーツァルトか、みたいな話にどれほど意味があるんかいな。

というわけで、「いろいろな解釈があって良いじゃないの」みたいな演奏が多数出現する土壌ができているのであります。

以上、前フリでした。すみません。

ピション率いるピグマリオンによる演奏であります。アップル音楽でも聴ける

・葬送の歌(伝承歌謡・作曲者不明)で開始して

・伝わっているレクイエム本曲を踏襲しつつ

・モーツァルトが若い頃に作った曲の断片もあちこち加えて(これが見事に流れる;DJの技やね)

・ポロッと発見された自筆譜は、その断片のままに演奏(歌唱)し(これがすごい効果)

・葬送の歌で終わる

要するに、葬式会場で故人の写真(若い頃のやつとか何とか)をスクリーンに映しだしている風情。聴けば、わかります。モーツァルト作曲(どこまで?)のレクイエム演奏であると同時に、モーツァルトという男のための葬送曲になっております。

そもそも良い曲なんですよ。それを上手に飾り、見事に演じた。「どこまでモーツァルトが作ったのか」とか問わず、モーツァルトに向けて奏した。それが伝わるんですよ。

これぞレクイエム。うむうむ。

2024年9月18日水曜日

音・言葉は感染します

誰もが感じていることじゃなかろうか。

ギターを弾く連中は、なんだかギタリストっぽい。
打楽器の連中は、やっぱり、それっぽい。
そういえば管楽器の連中って、一種の共通点が…

人はそれぞれなので、決めつけることはできない。
しかし「この人、ベースなのかぁ。やっぱり!」
みたいな経験は広く共有されていると思う。

すると、こう考えたくなる:楽器が人を選ぶのだ。

人はそれぞれである。それぞれが自分の意思で
「ギターやってみようかな」
「ちょっとホルンやってみたい」
という具合に楽器を始める。
…かと思いきや、ちょっと違う。

ギタリストの部屋にキーボードがあったり、
バイオリン弾きがフルートも持っていたりする。
「ちょっと手を出したこともあるんですよ」とか言う。
実は、いろんな楽器を試しているものなのだ。

そうしてなんとなく自分の楽器が決まってくる。
これが「自分に合う楽器を見出す」プロセスである。
「自分に合うもの」って、自分で決められないんです。
いろいろやってみて、「感染する」のであります。

言語の場合は、もっと面白い。

ほとんどの場合、母語は与えられる。
日本に生まれて日本語話者になるとか。
これ、選べない。

日常生活・義務教育程度までは土地の母語、
それを越える教育は第二言語に切り替わる…
そんなパターンもある。やはり選べない。

選べるのは、ある程度は自分の意思で
「外国語」を習得し始める時である。
すると先ほどの楽器みたいな話になる。

今の日本では、学校で英語に接することが多い。
これは学校の科目。通例、普通の意味での
言語習得にはつながらない。

しかし「へえぇ、これが外国語かぁ」と思って
英語とかイタリア語とかベトナム語等々に触れ、
まぁまぁ習得してしまうパターンは多い。

そんな人が自分の母語である日本語を使う時、
いかにも特徴が感じられることが多いのだ。

フランス文学・文芸の類が専門の人が書く日本語。
英文学・文芸の類が専門の人が書く日本語。
ギリシャ古典・思想の類が専門の人が書く日本語。
それぞれ、なんだか共通点がある。
楽器を演奏する人の場合と同じ感じなのです。

そこで「言葉が人を選んでる」と思いたくなる。
いろいろ触れるうちに「感染する」のだ。

人間個体は次々に生まれ、また死んでいく。
そこに乗っかって、楽器も言葉も存続する。

我々の「主体性」「好み」「趣味」等々って、
「感染指向性」なのか。そうか。

オレが毎日のように酒を飲むのは、
感染なんだよ。

2024年8月29日木曜日

夏の読み物・飲み物

なんとなく講釈師業を続けてしまっている。理由は二つ:
 
・図書館が使える
・長めの休暇(夏休み・春休み)がある

この二つを足せば「休暇に本を読む」となる。
特に夏休みなんて、暑くて何もできない。
んじゃ読むか…ってなりますわな。

実は三年ほど日本語講師業もやっていた。
こちらには長い休暇がないので読めなかった。
その代わり(必要に迫られて)日本語文法とか
漢字の辞典とか、いろいろ吸収した…
ってのは別の話。

夏の休暇に寝転んで読む。良いものであります。
何を読むかは、本当にその時の流れとか、思いつきとか。

何年前だったか、古本屋で安く仕入れた

吉川英治『宮本武蔵』

全巻読んだのは楽しかった。
ああいうのは一気読みが良いですね。

手塚治虫『火の鳥』

全部読んだ夏もあった。マンガってすごいねぇ。

昨年の夏は、いささか趣味と商売に走った感じで

Huddleston & Pullum (2002) The Cambridge grammar of the English language.

という2000ページほどの英文法書。
この文法書から派生した教科書が2つある(2005年版と2022年版)。
こうなると「何をしたの?どう違うの?」って気になるじゃないですか。
というわけで、3冊並行して通読。
細かく読むというより、比較検討みたいな感じだったけど、
言葉って細かいネタの集積なので、なんだか大変だったなぁ。
(簡単なまとめはこちらに。いらんか。)

この夏は

『哲学の歴史』(全13巻)中央公論新社

木田元さんがポロッと紹介してたので、
職場の図書館(二か所)で全部借りて、
ザクザク眺める。
あと一冊だけど、読みながら「へぇ〜」と思って
関連書籍を近所の図書館で借りたりしちゃう。
終わらないのであります。

「哲学する本」ではなく、「哲学紹介の本」の典型。
すると結局「かなり個性的な人々の伝記」となる。
そりゃ面白くもなります。

同様に、「英文法紹介」をやろうとすると、
「文法書(の著者)の紹介」となる。
「英文法する本」と「英文法家の紹介」を混ぜたらオモロイかな。

そんなことを考えながらも、
そろそろ今夕の食卓を手配せねばならぬ。
特に夏休みなんて、暑くて何もできない。
んじゃ飲むか…ってなりますわな。
ビールかブドウ酒か日本酒か。
日本酒なら最近はクジラの生酒が多いですね。

夏の読み物📚
夏の飲み物🍸

よろしゅうございますねぇ。

2024年8月22日木曜日

日本名物「通用しないもの」

「自分たちだけで通用するもの」「ヨソでは通じないもの」を作り出す傾向は、どこにでもある。
共同体意識を高め、仲間の結束を固めるのに有用なのだから、当然であろう。

「これがわかるのは自分たちだけだ」「オレたちは独特だ」という意識。
これを保つのは難しい。
それを確かめるには、「他の人たちにも通じるのかな」「外の世界も観察してみよう」
という外向きの意識が必要になる。
しかし、そもそもそんな外向きの意識を否定して「オレたち」世界を固めたいのである。
ここに葛藤が生じる。

すると、いろいろと面白いことが起こるのであります。

☆第二次大戦中、時の文部省は学校で使われる英語教科書に多くの注文をつけた。
(これに逆らうと検定不合格。「注文」というより命令ですな。)
まず Japan という国名表記が気に入らないので、Nippon にしろ。
英米をはじめとする英語の連中が Japan というのであって、
我が国の名前はニッポンである。というわけだ。
面白いでしょ。
そもそも英語の連中が使う言語が英語であり、その英語では Japan というのだ。

…しかし、「問題はそこじゃない」らしい。じゃぁ、どこなんだろ。
なんだか、わかるよね。

☆近年、ある種のウィルスが世界的に流行した。
米国の製薬会社が予防接種を開発した。
これをせっせと買って、日本国民に打たせたい。
その安全性に不安を持つ人は、
科学的に無知だという印象を与えなければならない。
副作用なんて言葉を使う奴がいたら「無知だ!」と決めつけねばならない。
薬と違って、予防接種の場合は「副反応」というのだ。
「副作用」は間違い。無知。
そんなキャンペーンが続いた。
当の製薬会社のある米国では、
どちらもフツーに「副作用(side effects)」というだけである。

…しかし、「問題はそこじゃない」らしい。じゃぁ、何なんだろ。
もう、わかるよね。

☆税金、とりわけ消費税を上げる。
その際、「日本の税金は諸外国に比べてまだまだ安いのだぁ」と繰り返す。
「健康保険」「介護保険」「厚生年金」「雇用保険」等々は
税金ではないという印象を与えたい。
ほら、「税」の字が入ってないでしょ。
もちろん、「諸外国」では、この辺りはすべて「税金」である。

…しかし、「問題はそこじゃない」らしい。
すっごく、わかるよね。

☆税金を上げる際には、
「ほら、日本はこんなに景気が良くなってインフレなんだよ」
という印象を与えたい。
そこで「インフレ率」という数字をニュースに載せ、皆さんに見せる。
「モノの値段の推移」である。
その際、国際基準では
「生鮮食品とエネルギーの価格は除く」のがお約束である。
生鮮食品は、その年の気候などでばらつきが大きくなる。
景気の反映にならない。
エネルギーに至っては、産油国で戦争が勃発するだけで高騰してしまう。
景気の反映にならない。
だから「生鮮食品とエネルギーは除外して、
モノの値段の推移を観察しましょう」なのだ。
これを「コア・インフレ率」という。日本以外では、ね。

日本だけ:
「生鮮食品を除外したインフレ率」を「コア・インフレ率」と呼ぶ。
すると、どこかで戦争があってエネルギー価格が 高騰して物価が上がっても(今がそうですね)、
「うわぁ、モノの値段が上がりましたね。
景気が良いですね。増税しても良さそうですね」
という話が成立してくれる。
もちろん、日本以外の国々では通じない話である。

…しかし、「問題はそこじゃない」らしい。
わかるよね。

☆いわゆる先進国であれば「教育費」はかからないものである。
しかしアメリカや日本では大学に行くのにお金がかかったりする。
しかし、「払わなくても良いよ」という場合もある。
慣習的に「奨学金」と呼ばれる。
いや、近年の日本は違う。「奨学金」は借金なのだ。
これはとんでもない意味の変化である。
しかし、問題はそこじゃないらしい。

☆米国のETSという会社が日本向けに作っているテストがある。
TOEIC というテストである。「英語のテスト」とされている。
しかし、受けるのは日本の人(そして韓国の人など)だけである。
英語のテストなんだけど、英語の世界では通用しないのだ。
普通に考えて、誰もが首を傾げる構造である。
しかし、問題はそこじゃないらしい。

この調子で、いくらでも続けられそうですね。
みなさんも、どうぞ!

2023年9月30日土曜日

楽しい夏休み…もう終わり?(泣)


今年は講師業スケジュールにちょっとした変更もあり、若干忙しくなったけど、しっかり夏休みが取れるようになった。これは大きいですな。

まず、週一で新しい職場に行くようになった。これは二つのことを意味する:

(1)通勤電車で読書+音楽とか映画鑑賞できる
(2)ちょっと酒代が増える

そこでまず電車ではプラトン『国家』を読む。以前にもざっと読んだんだけど、また気になったのね。この種の世界の名著みたいなのは図書館で借りるに限ります。抄訳・完訳その他含めて2〜3種類、日替わりで電車に持ち込む。

こここここれは。例の変なノリやけど。やっぱ。面白すぎる。2000年以上前に現代の世界(特にアメリカや日本みたいなアホ世界)を見事に予言している内容であります。

それから Edward Kanterian Wittgenstein を読む(これは中古で買った)。いわば新書版のウィトゲンシュタイン入門書みたいなもの。きちんと書いてあり、バランスの取れた良い内容で、楽しく読める。

そもそもウィトゲンシュタインという人は、(プラトンの描く)ソクラテスが気に入らないということをあちこちに書いている。だから、この本の最後の方(192−193ページ)にも出てくる:
例の「ソクラテス的方法」とやら、話の中身は無茶苦茶だし、流れはわざとらしいし、ソクラテスのものの言い方も悪趣味。言いたいことがあればズバッと言えよって感じ。「方法」なんて、どこにもない。おまけに聞き手はバカ揃いで、自分の意見なんてない。ソクラテスが導くままに「ハイ」とか「イエ」とか言う。アホの集団だ。

これには本気で爆笑しました。めちゃ当たってるし。

そんな愉快な通勤電車を経て、しっかり夏休みが来た。
…はずなんだけど、気がつくともう終わってるし。あれれ。どこへ行ったのだ。たくさん飲んだような。2000ページほどの英文法書も丸読みしたよね。そのほか、いろいろあったはず。でも。マジで。終わっちょる。

ふと気がつくと、またもや職場に通う日々。これは二つのことを意味する…あぁアカンがな😱

2019年2月20日水曜日

短波ラジオの音の中に

Prefab Sprout という変な名前の英国ポップ音楽バンドがある。この名前自体に深い意味はなく(「プレハブ・もやし」?)、単に「2音節+1音節」(例えば Grateful Dead みたいな)ってリズムの良い名前だな、と思っただけだそうな。

その実体は Paddy McAloon という男の個人プロジェクトであるが(いわゆる「ワンマンバンド」)、かと言って妙なエゴも感じられず、クセらしいクセもなく、漠然とアメリカ音楽風味があるようで、でもケバケバしいメロディも演出も希薄な英国ポップ…という不思議感。結果として他にはない個性を作り上げている。

一番有名なのは、なんと言ってもこれ:



「いっちょ、やってみっか」と思って作っちゃったら、ヒットしちゃった曲である。去年フランスのカフェに座っていた時もいきなりこれがかかり、本当に椅子から落ちそうになったわいな。

どうしても耳に残るサビの部分、Hot dog, Jumping frog, Albuquerque については、深い意味も何もなく、単に「俳句みたいなリズムで、良い感じでしょ(これでヒットしたし)」とのこと。またかい。

そんなこともできてしまうマカルーンさんなのだが、2003年に不思議な曲を作った。すーっと流れる室内楽曲的な音にナレーションがつく。それが20分ほど続く。それだけ。

ナレーションを聞いているとなんとなく物語が感じられそうな部分もあるが、やはり結局特に意味はない。ただ漠然とした喪失感、ランダムに出てくる過去の記憶、その中を彷徨う自分を見ている自分…これらが展開し、時に繰り返されるフレーズから表出してくる。それだけである。

これは…カズオ・イシグロですよ。



これ、ものすごく良い。私も、これほど気に入る曲を見つけたのは、本当に何年ぶりかでした。興味のある人は、20分ほどの時間を作って聞いてみる値打ちあります(YouTube版の音質も悪くないですし)。

この I trawl the MEGAHERTZ という曲がメインで、これに何曲かつけて同題アルバムにした。当時、マカルーンさんは「これはかなり個人的な音楽だから」ということで個人名、つまり Paddy McAloon 名義で発表した。

それがこの度(2019年2月)、Prefab Sprout 名義で新たに発売されることになった。良いものは消えず、プレハブもやしの資格があるというわけか。

何となくふっと自分を振り返り、過去に思いを馳せる。記憶を探る自分を見る。そこには特に深い意味もない。ただ思いを馳せること自体に大切な遠い哀しさがある…ような気がする。

それは短波ラジオのダイヤルを回しながら耳をすますのにも似ている(というのが、この曲の題名)。不思議な電子音ノイズや、ニュース音声の断片や、知らない言語音や、身の上相談番組の一部や、その他ランダムな音の中に、大切な何かを探しているような、遠い哀しさがある。そんな気がする。

それにしても短波ラジオ!…これに反応する人、年齢がバレますな。

2018年8月20日月曜日

プラム先生、(珍しいことを)語る

プラムさん(Geoffrey Pullum)は、一流の言語学者である。話も文章も面白い。若い頃はバンドマンとしてデビューしたとか、スコットランド生まれだけど長年アメリカにいたとか(現在はスコットランド)、目下最大・最良の英文法書である The Cambridge Grammar of the English Language の共著者であるとか、何かと経歴も面白い。

要するに面白い人なのだ。「日本の英語教育について」などというつまらないことについて語ることは滅多にない…んだけど、この度はチョロっと言いたくなったらしい(特に最後の文がこの人の性質の良さを表している)。日本の大学の実名も出てくる。

日本に在住しつつこの手の話に無縁な私は、プラムさんの判断に同意するとともに、「へえぇ、今でもそんなことやってるの!?」と思いましたなぁ。まぁ日本の話だし、勝手に日本語にしても良いだろう。そう判断しました。

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日本で無益な英文法を学ぶことについて
   ジェフリー・プラム

ひどい日本語訛りの英語で研究発表を聞かされて一苦労、そんな経験がおありだろうか。実は先週、日本からやってきた優秀な若手心理学研究者の話を聞いたのだが、これが大変だったのだ。「グラフ(graph)」の発音は IPA [gɹæf] だが、これを言うたびに「グレープ(grape)」としか聞こえない。何とか日本語の音声についての知識を総動員し、この人の発する「ぐれーふ」[gɻeːɸ] という音はきっと graph のことだろうと推測できたが、一緒に聞いていた人の多くはわからなかったようである。

日本では10歳から英語を教える学校も多いが、大人になっても、いや国際的に知られる一流の学者になっても、その英語運用レベルは極めてお粗末なことがある。発音指導が不十分であるとか、本当に英語を話す機会がないとか、理由は様々だろう。また、昔ながらの文法を教えているという側面もある。

先日も、日本で英語を教えているという人から質問を受けた。以下の文における下線部のついた関係詞節についてである。これらは実際に試験に出され、高校の教科書にも掲載されたものだという。

  1. She said she didn’t like the film, which opinion surprised everyone.
  2. The men wore kilts, which clothing I thought very interesting.
  3. The doctor told her to take a few days’ rest, which advice she didn’t follow.
  4. He spoke to me in Spanish, which language I have never studied.
  5. The suspect didn’t drive his car on the day, which fact is important.
  6. She favors equal pay, which idea I’m quite opposed to.

これを見た私は「何だこれは」と思わざるを得なかった(6番の「彼女は差別のない平等な給与システムが良いと言うが、その意見に私は反対だ」という話も引っかかるが、それはさておき)。

いずれも which + 名詞で始まる非制限関係詞節という極めて珍しいもので、会話においては存在せず、近年の英語においてもほぼ消えつつある代物である。

この英語の先生は立場上これを学生に説明せねばならない。ところが英語話者に聞くと、こんな文は見たことも聞いたこともないと口をそろえる。いずれにせよ学生諸君はこれを学ぶ。重要な大学入試に出るのだから。

なぜこんなに奇妙な文を扱わねばならないのかと思い、この先生は出版社に問い合わせた。すると「本当に入試に出てますので」という理由に加え、この種の文は(私も執筆した)The Cambridge Grammar of the English Language(略称 CGEL)にも載っているので正しいですよ、という返事だったというのだ。

確かに CGEL 1043ページには次の用例がある。

I said that it might be more efficient to hold the meeting on Saturday morning, which suggestion they all enthusiastically endorsed.

とはいえ CGEL は大規模な文法書であり、外国語として英語を学ぶ学生の教科書ではない。この用例は、こういう場合 which とそれに続く名詞を引き離すことはできません、と示しているだけである。つまり which suggestion they all endorsed はぎりぎり可能だとしても、which they all endorsed suggestion は完全にアウトという話なのだ。

さらに CGEL はこの種の用例について「極めて稀にしてフォーマル、ほとんど古用法」(1044ページ)と明記している。先ほどの6つの例を載せた教科書はこの点を外しているため、うち3つが文体上ひどくいびつなことになっている。つまり1番と5番には didn’t という短縮形、6番には I’m という短縮形が使われている。こうしたインフォーマルな短縮形は、問題の関係詞節が持つフォーマルで文語的な口調に合わないのだ。

誰であれ、この種の関係詞節など目にすることも耳にすることもなく、立派な英語生活を送ることができるであろう。こんなもののために英語学習者が時間を費やすと聞いただけでショックである。ところが日本では、これほどあり得ない文が入学試験の材料にされている。ある教科書によると、実践女子大学の入試にはこんな問題があったという。

Choose the correct answer to complete the sentence:
   I was told to take a bath, _____ advice I followed.
   1: which   2: whose   3: its   4: what

北星学園大学にはこんな問題があったという。

Correct the underlined word in the following sentence:
   We were told to go not by bus but by subway, that advice we followed.

これを載せている教科書によると、この that which に変えるのが正解だというのである。しかし、元の文なら(コンマで区切られた座りの悪い文ではあるが)英語話者はすぐに理解できる(「バスはやめて地下鉄で行ってはどうかと言われた、その助言に我々は従った」)。ところが that which に変えてしまうと、極めて稀で古式な、普通の英語話者ならダメと判断する構文が出来上がる。その意味では元の文より悪くなるとも言えるだろう。これを正解とする英語のテストとは何なのか。


これほど古臭いことをやっていながらも、大学で教育を受けた日本人なら、最終的にはかなりしっかりした英文法を身につける。それでも改善の余地は、特に発音の面で、大いにあるだろう。そのための時間を無駄にしてはいけない。学習者が極めて稀な関係詞節について学んでも、それを実際に目にすることはないのだし、それは時間の無駄に他ならないのだ。そう思うと居たたまれない気分である。

自己紹介

自分の写真
日本生まれ、日本育ち…だが、オーストラリアのクイーンズランド大学で修行してMA(言語学・英文法専攻)。 日本に戻ってから、英会話産業の社員になったり、翻訳・通訳をやったり、大学の英語講師をしたりしつつ、「世の中から降りた楽しい人生」を実践中…のはず。