いやぁ、びっくりしましたわ。こんな演奏が出てくるとは。
本来キリスト教会の典礼楽曲であるレクイエム(鎮魂曲)、それなりに退屈でも仕方ないというジャンルであります。しかし、その「本来」の意味がなくなってくると、その分だけ楽曲にエネルギーが注がれ、いろいろ名曲が出現する。
特にフォーレのレクイエムとか、よろしいですねぇ。もう何種類の演奏を何回聞いたかわからない。
キング・クリムゾンのレクイエムは、アルバム 'Beat' 収録です。いやいや、これはちょっと違う話か。でもあの演奏は絶品中の絶品ですよ。
そしてモーツァルトのレクイエムであります。昔からあまりモーツァルトは聞かない私でも、これだけは例外で、もう何種類の演奏を何回聞いたことやら。
待て待て。これについては、どこまで「モーツァルト作曲」なのか怪しいのだ。詳細がちゃんと伝わっていないこともあり、よく知らないんだけど、どうやら大筋としては:
・ある男が「死んだ妻のためのレクイエムを作ってくれ」と人を介してモーツァルトに依頼
→モーツァルト、引き受ける(死生観に感じるところある時期でもあったらしい)
→まずは報酬の半分を受け取り、作曲開始
→モーツァルト、死んでしまう
→その妻は「これじゃ残りの報酬が受け取れない」ということで関係者Aに完成を依頼
→関係者A、いろいろ頑張るが「やはり無理です」と未完成の形で返却
→その間、モーツァルトの死がバレない工夫が続く(そりゃ詳細が伝わりにくくなりますわな)
→ドサクサの中、関係者Bが何とか作り上げてしまう
→締切の一ヶ月前に納品(演奏者は練習大変やな)、残りの報酬を受け取る
→もちろん「夫のモーツァルトが最後に完成したのがこれでした」と説明
→そのために無理な説明がいろいろ必要となり、大小の「謎めいた伝説」が出現する(そりゃ詳細がわからなくなりますわな)
→しかし曲自体は有名になる(良い曲だもんねぇ)
→後の音楽史家たちは「どこまでがモーツァルトか」をめぐって議論
→近年になって突然モーツァルトの手による楽譜原稿がポロッと1ページだけ見つかったりする
→ますますワケがわからない
→様々な演奏家が種々の演奏をやり続ける
そもそも形式の定まった典礼曲であり、ハイドンのパクリというかオマージュが堂々と入っており、すぐに「それは俺のネタや」と騒ぐ著作権意識満開の現代とは時代背景も違う。どこからどこまでモーツァルトか、みたいな話にどれほど意味があるんかいな。
というわけで、「いろいろな解釈があって良いじゃないの」みたいな演奏が多数出現する土壌ができているのであります。
以上、前フリでした。すみません。
ピション率いるピグマリオンによる演奏であります。アップル音楽でも聴ける。
・葬送の歌(伝承歌謡・作曲者不明)で開始して
・伝わっているレクイエム本曲を踏襲しつつ
・モーツァルトが若い頃に作った曲の断片もあちこち加えて(これが見事に流れる;DJの技やね)
・ポロッと発見された自筆譜は、その断片のままに演奏(歌唱)し(これがすごい効果)
・葬送の歌で終わる
要するに、葬式会場で故人の写真(若い頃のやつとか何とか)をスクリーンに映しだしている風情。聴けば、わかります。モーツァルト作曲(どこまで?)のレクイエム演奏であると同時に、モーツァルトという男のための葬送曲になっております。
そもそも良い曲なんですよ。それを上手に飾り、見事に演じた。「どこまでモーツァルトが作ったのか」とか問わず、モーツァルトに向けて奏した。それが伝わるんですよ。
これぞレクイエム。うむうむ。